「失敗が怖い」で挑戦から逃げると、自己を確立できない
大変多いご相談の一つに「失敗が怖い」があります。
「もし失敗したらどうしよう」
「上手くいかなかったらどうしよう」
「人からどう思われるだろう」
しかしこれらには、あらかじめ答えはありません。どんなことも「やってみなければわからない」のです。
「やってみなければわからない」からやる
「やってみなければわからない」からやらない(「どうせ無駄」「ダメに決まってる」「前例がない」)
大雑把に言ってしまえば、人間の生き方にはこの二通りしかないのかもしれません。ただこれも一生固定されたものではなく、失敗が怖くて挑戦できなかったクライアント様でも、地道な取り組みの結果「『やってみないとわからない』からやる」に変わっていかれます。
もっとも、綿密な調査や予測の元に「やらない」選択も時には重要です。蛮勇が良いわけでは決してありません。ただ「やらない」根拠が、「やってみなければわからない」からでは、何の発展も成長もありません。
私たちは自分が何者であるかを、外側の現実という鏡に映してようやく知ることができます。部屋の中でじっと座っていても、自分がどんな人間かはわかりません。
自分の意志でやることを選択してこそ、そのフィードバックを得て自分自身を知っていきます。自分は何が好きで、何が大事で(価値・信念)、何ができて、何ができないのか(能力)を選択と行動を通して知って(環境)いきます。「あの人がやれと言ったから」では、上手くいっても自信にはならず、上手くいかなくても反省し次への糧にしようとはしません。
ですから、「『やってみなければわからない』からやらない」「誰かに決めてもらってその通りにしておく」は、その時は楽ができるようでも、繰り返せば繰り返すほど、自分が何者かがわからなくなってしまいます。自分ではない「決めてもらった誰か」の人生を生きることだからです。
つまり一番肝心な自己の確立ができません。学校の成績がどんなに良くても、大企業に勤めても、人がうらやむような恋人がいても、自己を確立することなしには、自分に自信を持てません。そしてその埋め合わせとして、人からかまってもらいたがったり、自分を誇張して空威張りしたり、逆に自己卑下(どうせダメだ)をして逃げたりを繰り返してしまいます。
挑戦すること、裏から言えば失敗を恐れないこと、これをどう捉えるかが「この世に二人といない自分をどう生きるか、或いは『誰かの人生を生きる』か」の分岐点になるでしょう。
では人は何故、失敗を恐れるのでしょうか・・・?主だった原因を以下に挙げていきます。
原因①「ほれぼれする自分でなければ愛せない」のナルシシズム
「気になる人の目」は、実は自分の目
「ほれぼれする自分でなければ愛せない、認めたくない」のナルシシズムが強いと、失敗した自分を受け入れることができません。「失敗が怖い」原因の最たるものでしょう。
「失敗したら、みっともない。誰かに何か言われたらどうしよう。人の目が気になって挑戦できない」・・非常に多い悩みですが、実はこの「人の目」は「自分が自分を見ている目」です。他人という鏡に、自分を映し出し、その目を恐れています。「失敗したみっともない自分を、自分が見たくない」
「皆失敗はするものだし、第一皆忙しいから、いちいちあんたのことなんか氣にしてないよ」他人からそう言われたり、自分でもそれはわかっているでしょう。しかし、恐れているのは自分の目ですから、環境を変えたところで同じことは続きます。
特に親御さんから、何か失敗すると「これだからお前はダメだ」と、行為ではなく自分という存在そのものを否定されてしまうと、自信を持てなくなってしまいます。そうなると尚更「失敗しちゃダメだ!」になり、最初からチャレンジしないことを選んでしまう、そのパターンがいつの間にか染みついてしまうことがあります。
失敗を励まされて育った人は、何にも代えがたい宝物を貰っているでしょう。そしてまた、何かに失敗しても、その人自身がダメだということは決してありません。
そして大人になった後は、「失敗=自分がダメ」の声に屈し続けるか、屈するのをやめるかは、自分次第で選べます。親に否定された人全員が、大人になっても「これだから私はダメだ」を生きるわけではありません。その代り屈するのをやめるということは、「だって私がダメだから」と何の根拠もない言い訳ができなくなるということです。
原因②「正しい/正しくない」「○か×か」の二元論
「誰かに教わった『正解』通りにしておきたい」に潜む責任放棄
失敗を恐れる人によくありがちな思考に「どこかに『正解』があるのではないか」「誰かに『正解』を教えてもらいたい」「誰かに『それでいいよ』と言ってもらいたい」があります。勿論仕事の場面では、自分で勝手に判断せず、上位者に確認することも必要でしょう。
しかし自分の人生の選択には、最初からわかりきった「正解」はありません。覚悟を決めるとは、「最初からわかっている正解などない」前提を受け入れることでもあります。
物事を「より効果的なやり方や選択は何か」ではなく、「正しい/正しくない」「○か×か」の二元論で捉えていると、決まった「正解」がこの世にあるかのように錯覚してしまいます。しかし現実は、二元論ですっぱり割り切れるものではなく、多面性があり、濃淡のあるグレーがマーブル状になり、しかも刻々と変化しています。
「正解」を求めてしまうのは、「だってあの人が『これが正しい』と言ったから」にしておきたい、責任放棄が実は潜んでいます。
無責任な人が、信頼されることはありません。そして信頼こそが、人を人たらしめる社会性の生命線です。「自分はどこへ行っても、お互い多少の好き嫌いはあったとしても、まずまず人と信頼を築くことができる」と自分に対して思える人が、失敗を恐れず挑戦することができ、また大切なことに挑戦すればこそ、人から信頼を得ていきます。
思考停止しておきたい誘惑
「今、この状況における最善を尽くす」ことは誰でもできますし、それが責任ある大人の態度でしょう。ただそれも、その時の自分が「最善だと思ったこと」でしかありません。
今この瞬間は、すぐに過去のものになります。「次はどうする」の未来を考える時、ベストではなく「より良い選択」モア・ベターしか存在しません。
「より良い選択」を考えるとは、選択の幅を広げ続けることです。つまり、「このやり方で上手くいかなかったら他のやり方」を考え続けなくてはなりません。
「正解を求める」態度には、複数の選択肢を考え続けるのが面倒だから、思考停止しておきたいという誘惑も実は隠れています。
原因③「結果をコントロールしたくなる」自己中心性
「世界は自分が考えたとおりにあるべきだ」の自己中心性
失敗を恐れるとは、結果を恐れている、ということです。結果が全く氣にならないのは寧ろ不自然ですし、氣になればこそ、精一杯の努力もします。
しかし「もし失敗したら、うまくいかなかったらどうしよう」が延々と頭から離れないのは、「望まない結果になるのが受け入れられない」「世界は自分が考えたとおりにあるべきだ」の自己中心性のためでもあります。
自己中心性とは単なるわがままではありません。自分が望むものだけが欲しい、望まないものは欲しくない、それは自然と言えば自然ですが、現実はそうなっていません。どんな人にもこうした自己中心性がある、自分も決して例外ではないという自覚を持つことが第一歩となります。
この自己中心性を脱していくためには、「望まないことは起きて当然」と現実を受け入れていくことが必要です。これには痛みが伴います。
そして「望まないことは起きて当然」の態度が、少々のことでは投げ出さない忍耐力の基礎になります。嫌なことをしぶしぶ嫌々する我慢ではなく、投げ出さない粘り強さの忍耐力に乏しいと、失敗を恐れ、挑戦しなくなってしまいます。
例えば、昨今自然災害が多発しています。誰しも災害が起きることは望みません。しかし、「もし災害が起きたらどうしよう。起きてほしくない」と誰にもどうにもできない結果をコントロールしようとするより、「災害は起こるもの。自分も被害に遭う可能性は避けれらない」と腹をくくって対処するのが、責任ある大人の態度です。
これは災害に限ったことではありません。人間関係でも仕事でも「望まないことは起きて当然」です。その前提の上で、予防できることは予防する、その不断の努力をすること、つまりは、「失敗するかしないか」ではなく「失敗はするもの」という前提に立てばこそ、失敗を恐れなくなります。
サーブを打つ工夫はできるが、サーブが入るかどうかはコントロールできない
私たちはプロセスと、そして起きた結果から何を学ぶかは、自分次第でコントロールできます。
テニスでサーブをする時、サーブが入らないことを望む人はいません。しかし、サーブが入るかどうかは、ジョコビッチも大坂なおみもコントロールできません。
どのタイミングでどうやってトスを上げるか、しっかりボールを見て、腰や腕の使い方をどうするのか、そのプロセスを工夫することはできます。ジョコビッチも、一テニス愛好家も、やれることは実は同じです。
「やれることは実は同じ」これが腑に落ちると、自分もジョコビッチも、同じ道の上に立っていることがわかります。勿論ジョコビッチの方が、より長いプロセスを歩んでいるでしょう。それに対するリスペクトはしても、「あの人は特別だから、天才だから」を言わなくなります。というよりも、言えなくなります。
同じ道の上に立っている、その道を歩むか歩まないかだけで、全員違うユニークさや、限界はそれぞれにあっても、「特別だから私とは違う(だから私は努力しなくてもいい)」人は存在しません。
できることは準備と工夫と学びだけ・PDCAサイクル
私たちは誰ひとり、結果をコントロールできません。できることは準備と創意工夫と、上手くいってもいかなくても、結果から学び次に生かすことだけです。
昔から言われているPDCAサイクルは、仕事のやり方だけではなく日々の生き方そのものです。
PDCAサイクルを回すには、自主性が不可欠です。PDCAサイクルにのっとって日々を生きると、「だってあの人が○○するから/してくれないから」「どうせ私はダメだから」の責任転嫁や自己卑下ができなくなります。
「だって」「どうせ」を言っている間は、どんな人であっても、何も変わりません。
責任転嫁や自己卑下をして逃げるのは、その時は楽です。いずれにせよ「私は正しい被害者」のポジションを得られます。いわゆる「不幸好き」な人は「正しい被害者ポジション」を失いたくない人とも言えるでしょう。
そしてまた失敗を恐れてしまうと、Dばかりやる、やりっぱなし、やることに振り回されっぱなしになり、どんなに動き回っていても積み上げにはなりません。毎日へとへとになるまで「頑張っているのに」自信が持てないのは、PDCAサイクルになっていないからなのです。
「失敗か成功か」から「いかに小さな失敗の内に修正できるか」へ
問題が小さいうちに行動を起こして対処する人は、不幸が嫌いなんです。我慢ではなく工夫が好きなんです。
問題が大きくなるまで行動しない人は、不幸が好きなんです。我慢が好きで、工夫や行動は嫌いなんです。 斉藤一人
不幸が嫌いな人、裏から言えば幸福が好きな人は、ただ幸福を口を開けて待っている人のことではありません。「問題が小さな内に」「小さなほころびの内に」すぐに腰を上げてほころびを繕ってしまう人のことです。
或いは、転びそうになった時に、上手に受け身を取って、回復可能なかすり傷にとどめる工夫をする人のことです。生きていれば傷を負うことは避けられません。腕一本もがれてしまうのか、回復できる傷にとどめるか、つまり大難を小難にしようとするかどうか。その工夫は自分しかできません。
例えば、舞台俳優がセリフを間違えるなどの失敗をしても、「お客様に氣づかれない内に」電光石火で立て直す、或いは、それさえ笑いに変えてお客様を動揺させないようにするようなことです。舞台上の失敗はないに越したことはありません。しかし「絶対に失敗したくない!」では、誰も舞台には立てません。
ヒヤリハットの法則
災害防止のゴッドファーザーと呼ばれたアメリカのハーバート・ウィリアム・ハインリッヒによる「ヒヤリハットの法則」があります。これは1件の重大な事故の背景には29件の軽微な事故があり、更に300件の事故に至らない「ヒヤリハット」の事例がある、と言う法則です。「ヒヤリハット」とは文字通り「ヒヤリとした」「ハッとした」「でも大事に至らなくて良かった」例です。
「ヒヤリハット」を隠ぺいせず、こまめに報告させ、対策を講じることにより、より大きな事故を防いでいくという考え方です。建設や公共交通など、労働災害が起こりやすい仕事に携わっている方なら、実践されているかと思います。
これには「人間はミスをするもの。完璧はありえない」という背景があり、ミスそのものを罰しないことが運用のカギになります。
この考え方は、労働災害とは無縁の人にも応用できます。というよりも、卓越している人は自ずと、このヒヤリハットの法則にのっとった対処を実践している筈なのです。
失敗=自分を否定された/行動や結果と自己認識の区別を
失敗を恐れる人の中には、「失敗=自分を否定された」と捉えている人が少なくありません。就活や営業で断られると「その会社との縁がなかった」「商品やサービスが『いらない』と言われた」と思えずに、「自分自身がダメだと言われた」と思い込んでしまうタイプです。
或いは、行動や態度を注意されただけなのに、全人格を否定されたかのように落ち込んだり、逆切れしたりするのも同じです。
失敗は結果であり、下のニューロロジカルレベルの図では「環境」に当たります。自分自身を作るのは、このニューロロジカルレベルの三角形ですが、下のレベルになればなるほど、当然ですが数が多くなります。
失敗を恐れない人は、失敗は無数の「環境」もしくは「行動」の一つに過ぎない、と捉えています。だからこそ、失敗しても自分自身を否定はしません。その代り、この無数の行動の集積が自己認識(自分はどういう人間か)に影響を及ぼすことがわかっているので、すぐに行動を改める「反省」ができます。
挑戦とは、今できる小さなことから始めること
挑戦というと、何か大きなことに立ち向かっていくというイメージがあるかもしれません。結果的に大きな事を成し遂げた人であっても、今できることは何かを自分に問い、その小さなことから始めています。どんな人も、その人にとっての小さな一歩しか踏み出せません。この小さな一歩を軽んじない人が、挑戦する人です。
自尊感情を高める生き方とは、小事を大事にすること、小事に渾身の自分を込める、そのことそのものが喜びであり、報酬であるという生き方です。
報われればうれしいし、報われなければ寂しい思いをするのは人情です。それでもなお、「報われなければしない」では、取引でしかなく、そこに自分に対する愛情はありません。そしてまた、逃げずに挑戦した自分は、結果がどうあれ、誰も知らなくても存在しています。
そして、責任放棄と思考停止と自己卑下に逃げ続ける人生か、挑戦することをやめない人生か、どちらを選ぶかは自分にしか決められません。