①弊社Pradoの心理セラピーを受けようと決めたきっかけはどのようなことでしたか?
何かにつけて世間体を優先する親に嫌氣が差していました。
自分達が勝手に氣にしているだけなら、放っておけるのですが、私の高校、大学の進路が、私の希望ではなく親の体裁(もっと偏差値の高い学校へ進学できたのに、世間で言う「お嬢様学校」へ行くように説得されました)を優先されたことへの怒りと悔しさがいつまでも拭えませんでした。
進学先の校風が私に合っていればまだ良かったのですが、私は元々ブランド物などには全く興味がないタイプで、学校になじめないままでした。本当は楽しいはずの、二度と戻ってこない学生時代が親の体裁のために台無しにされた・・我ながら恨みがましいとは思うのですが、この思いは年々募る一方でした。
夫には「いい加減前を向けば?」と言われ、全く彼の言う通りなのですが、中々そうはできない自分にも嫌氣が差しました。このままでは自分の人生にも、家庭生活にも悪影響が出ると思い、人生をリセットしたいとセッションを受けることを決意しました。
②セラピー・セッションの中で、印象に残ったものはどんなことでしたか?いくつでもお答えください。
足立さんは「自分の人生の選択を、親の価値観に無理やり合わせられたら、心が悲鳴を上げるのは当然です」と理解を示してくれました。「何よりも、ご両親は○○さんそのもの、○○さんの価値観や、人生の希望を知ろうとしなかったですね。一人の独立した人格として扱われなかったことに、怒りは感じるべきなんです」
そして続けて「この怒りや恨みを、消してしまえれば楽かもしれません。しかし生きて行く中で、消える怒りと、そうでない怒り、一生抱えざるを得ないものもやはりあります、残念ながら。例えばコロナワクチンで家族を奪われた人たちの悲しみや怒りは、一生消えることはないでしょう。日常生活では普通に仕事や家事ができる状態にまでなったとしても、怒りや悲しみそのものが消えてしまうのは不自然ですね?社会的な問題ではない、個人の人生においても、似たようなことは起きてしまうと思います」
私は心のどこかで「この怒りや悔しさを消したい。消してしまえば楽になれる」と望んでいたのだと思います。
「怒りや悲しみを消してしまおうとするより、向き合って、どう付き合っていくかを考えた方が、当時は子供だったのでどうにもできなかったご自身に報いてあげられるように思いますが・・いかがでしょう?」と尋ねられました。
その時はすぐに答えられる状態ではありませんでしたが、その言葉に、怒りや悲しみも込みの人生なんだという足立さんの人生観が現れているように思いました。
そして「お嬢様学校」になじめなかった、それはどこが嫌だったか、裏を返せばどうしたかったかを深掘りしていきました。本当に育ちの良い人は、私がいわゆるブランド物の服や持ち物を持っていなくても、それで態度を変えることなどしませんでした。「金持ち喧嘩せず」のことわざ通りで、謙虚で、それでいて卑下もしない、良い人もいました。しかし皆が皆そんな人ばかりではありませんでした。話していく中で、私は「お嬢様学校」が嫌だったのではなく、服装や持ち物で人を見下すような情けない態度が嫌だったのだと腑落ちしました。
「それが嫌だと思うのは当然ですよね。○○さんが服装や持ち物で人を差別して当たり前と思っていたら、そのことに嫌悪感を抱くことはありませんから」と言われてホッとしました。自分の母校を特別肯定はできないまでも、否定しなくて済むようになりました。母校を否定することは自分の過去を否定することにも繋がっていたと氣づきました。
そしてまた、もっと勉強に集中したかったのに、勉強を頑張る人をダサいと揶揄する人も結構いて、それも嫌だったこと、そういう人達は親のコネで労せず良い就職先を得て、不公平だと思ったことなどを話しました。足立さんは私の考えを「よくわかります」と肯定してくれました。そして「当時、同じ価値観を共有してくれた人はいましたか?」と尋ねられました。私が「いいえ」と答えると、「社会人になる前、まだ色々な人に出会う前の、そして感受性が豊かな学生時代に、そうした悩みを打ち明けられなかったのは辛かったんじゃないでしょうか?もし、共感できるお友達がその当時いたら、どう違っていたと思いますか?」と尋ねられました。
私は学校になじめなかったことそのものより、一人ぼっちが辛かったのだとその時初めて思い当たりました。
学校になじめない辛さを親には当然言えませんでしたし、一緒に愚痴をこぼせる友達もいなかった、その孤独感を自分の心がずっと訴えていたのだと漸くわかりました。
そして夫にはこの孤独感を理解してはもらえないだろうことも。夫は良い人ですし、そのことで彼を嫌いになることはないものの、お互いの限界もわかりました。その後何となくですが、このことで彼に愚痴を言うことはなくなりました。
学校を卒業して何年も経てば尚更、この孤独感は自分にしかわかりません。だからこそ、子供よりも親の世間体を優先することが、どんなに罪深いことか、そして日本人の大多数はそれに疑問すら持たないことに、改めて深く感じ入りました。
足立さんは「その通りです。自尊と虚栄は反比例なんですね。世間体とは体裁、つまり虚栄です。しかも自分は如何にも世間という、実は何の実態もないものの被害者であるかのように振舞うのが、二重に卑怯なんですよ。だからこそ、それに氣づいた人から、世間体ではなく『何が大事か』で生きて行く必要があると強く思っています」と仰いました。
③また、あえて最も心に残ったものを一つ挙げるとするなら何だったでしょうか?
このように「本当は何が辛かったか」を深掘りすると、自分の悩みの正体がわかってきた一方で、「もし、自分の望み通りの進学先だったら、別の人生があったんじゃないか」とまた言っても詮無い恨み節が湧き上がってきました。夫に言えば「いい加減にしろよ」と叱られるところですが、足立さんは「別の人生って、どんな人生だと思いますか?」とそれに向き合わせる質問をしました。
人の目を氣にせず、もっと勉強に打ち込めたんじゃないか、もっと深い会話ができる友達ができたんじゃないか、飾らない馬鹿話をして笑いあうこともしてみたかった、社会人になっても、もっと自分に自信が持てたかもしれない、等々。
「学生の時ならではの楽しさってありますね。当然得られたものを、失った悲しみは消えがたいと思います」と理解してくださった一方で「○○さんは今の人生に心からは納得されていないのでしょうか?それが悪いと言っているわけではありません。全員が全員、納得できる人生を歩んでいるわけではありませんし。それをごまかしてしまわない方がずっと大切ですから」と尋ねられました。
そのようなことは、深く考えてみたことはありませんでした。
「○○さんが仰った別の人生って、今からでもできることじゃないでしょうか」と尋ねられ、痛い所を突かれたように思いました。
「コロナの大嘘インチキのために、子供たちが3年以上にわたってマスクや、給食の黙食を強いられたり、様々な学校行事が中止になってしまいました。これらの過剰な感染対策に反対していた大人は圧倒的少数で、子供たちには本当に申し訳なかったと思います。子供たちが『コロナさえなければ、もっと違った3年間だった』と後で大人達を恨んでも当然のことですね。私たち大人は何の言い訳もできません。
しかし一方で、『自分の人生が上手くいかないのはコロナの3年間のせいだ』と子供たちに言われたらどうでしょうか?確かに決して良い影響は与えませんが、だからと言って、その後の人生が上手くいかないのを全てそのせいにするのは違いますね?○○さんの『望み通りの進学先だったら、違う人生だったかもしれない』は、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。誰にも証明できないんです。
だからこそ尚のこと『私の人生が上手くいかないのは、望む進学先でなかったせいだ』の罠に陥りかねないと思いますが、いかがでしょうか?」
その時はショックを受けて、上手く答えられませんでしたが、後からよくよく考えると、勉強も、深い会話ができる友達を作ることも、今からでもやろうとすればできることです。それから逃げるために、さぼるために、過去の理不尽さを言い訳に使っていたかもしれません。被害者意識に逃げてしまう罠が、こんなところにもあるんだと愕然としました。被害者意識に自分から逃げていて、納得できる人生なんて矛盾してますね。
理不尽さに対する怒りや悲しみに向き合い、昇華していかないと、こんな罠に自分から引っかかってしまうんだな・・と、感情に向き合うことの大切さを改めて実感しました。
そして宿題として「自分が関心がある事柄の勉強を始める」を出されました。そのやり方は何でもよく、本を読むでも、YouTubeの動画を見るでも良いとされました。今まで何となく動画を見ていたのを、目的意識をもって見るようになるだけで集中力が増し、「言っても詮無い愚痴」を夫にこぼすことがめっきり減りました。夫がそれに氣づいているかはわかりませんが(笑)
④弊社の心理セラピーを受ける前と、受けた後とで、変化したことは何だったでしょうか?
最初は親に対する怒りや恨みで一杯でしたが、自分の心と向き合っていくうちに、「あの人たちはこんなに真剣に、自分と向き合ってなかったんだな。だから娘を『お嬢様学校』へ入れて、恰もブランドのマークがついたバッグを見せびらかして満足するようなあり方に、何の疑問も持たないんだな」と相対化して思えるようになりました。
今は「情けないなあ」という思いで、激しく怒ったり恨んだりという氣持ちは薄らいでいます。しかし、やったことそのものは、肯定も許容もできない、それで良いのだと思えています。
怒りを消す=親が私にやったことを許容する、だと本当に無理が生じます。当初は私はそれをやろうとして、却って心が悲鳴を上げていたんだなとわかりました。
そして何より、私たちの子供には同じ轍を踏まさないように、私たち親の世間体の犠牲にしないためにこそ、私自身がこれが大事だと思うこと、こうしたいと望むことに集中する、その生き方を身に着けることの大事さを実感しています。
⑤弊社の心理セラピーを受けるのを迷っている方に、メッセージをお願い致します。
親の世間体の犠牲になって、心の傷が癒えていない人はきっとたくさんいると思います。単に「私は自分の子供にはそんなことはしない!」と決意するだけだと、うっかりすると自分の虚栄心に流されてしまうのだろうと今は思えます。
足立さんが再々サイトの記事の中で書かれている「虚栄から自尊へ」これを自分が生きてこそ、子供を親の世間体の道具にしなくなるのですね。
子供の自分が親の世間体の犠牲になり、それに恨みを抱えているのに、自分は「だって人の目が」「同調圧力が」と言い訳をして、結局知らず知らずのうちに親と同じことをやっている人もとても多いです。この連鎖を断ち切ろうと思われる方は、Pradoのセッションを受けてみられてはと思います。