修道女渡辺和子さんの若き日の逸話
ノートルダム修道会の修道女、渡辺和子さんは、岡山のノートルダム清心女子大の学長を長く務め、また「美しい人に」を始めとした多くの著作でも知られています。
その渡辺さんが、修道女になる一つ手前の、修練女としてアメリカで修行していた時のお話です。
渡辺さんは修道院に入る前は、大学で英文秘書として、戦後間もなくの当時としては、大変珍しかった女性管理職としてバリバリ働いていました。
ところが修道院での仕事は、掃除、洗濯、皿洗い、繕い物等々、キャリアウーマンだった渡辺さんからするとつまらない、面白くない仕事だったそうです。
勿論そのような本音は口には出しませんでしたが、態度や、手つきにおのずと現れていました。
ある日、修道院の広い食堂で、長いテーブルの席に一枚ずつお皿を置くように命じられました。
渡辺さんの仕事ぶりを見ていた先輩の修道女が、渡辺さんにこう尋ねました。
「あなたは何を考えて仕事をしていますか」
「別に、何も」
するとその修道女はこう言いました。
「あなたは時間を無駄にしている」
驚いた渡辺さんに、更にこう告げました。
「その席に着く一人一人のために、祈りながらお皿を置きなさい」
「何を、どれくらい、上手にやったか」よりも大切なこと
顕在意識は、「より上手にできたか、よりたくさんやったか」を重視しますが、潜在意識は「どのような心が込められているか」を重視します。
判断は顕在意識の領域です。ですから「上手/下手」「たくさん/少し」「難しい/易しい」など“定規を当てて測れること”を重視します。
「どのような心が込められているか」は、定規で測れるようなことではありません。しかし、私たちの潜在意識同士は、皆つながっていますので、「どのような心が込められているか」は言葉に出さずとも、或いは上手に隠しているようでも、必ず伝わってしまいます。
例えばお洋服屋さんの販売員が、お洋服が大好きで本当にお客様のためを思って接客していたら、少々販売スキルが洗練されていなくても、その心意気はお客さんに伝わるものです。逆に「売らんかな」だけの販売員さんは、どんなに笑顔を作って洗練された販売スキルを持っていても、やはりその心はお客さんに伝わってしまいます。
またプレゼンテーションにおいて、プレゼンテーターは「何を話すか」に意識が向いてしまいがちですが、聴衆には「何を話したか」よりも「どのように話したか」、つまりどんな心がそこに込められていたかに印象づけられています。
自分と向き合うとは「どんな心でそれをやったか」
人間の行動の動機には二つしかない、それは愛か恐れかだと言われています。
人間の心の幸福には、どんな動機でそれをやったかが、非常に重要です。例えば、怒りが全て悪いのではありません。怒る/怒らないよりも、何に対してどのように怒っているのかがはるかに重要です。自分の尊厳が傷つけられたから怒っているのか、自分のエゴが通らなかったから、拗ねて怒っているのか。
自分と向き合うとは、どんな動機、どんな心でそれを選んだのかに向き合うことでもあります。そしてそれは目には見えません。ただ、いずれ自分の人生に、かならず返ってきます。
例えば、結婚や恋愛=良いこと、おめでたいこと、とは限りません。精神的暴力の応酬で互いにしがみつきあっているカップルも、決して少なくはありません。
ですから逆に、別れることも、誰もあらかじめ望みはしないことですが、愛のためということもあります。昔は離婚が世間的に好ましくないこと、とされていました。こうした体裁のために関係を続けてしまうと、それは自分の心を偽ることになりかねません。
結婚=おめでたいこと、離婚=残念なこと、では必ずしもない、その中身を一つ一つ考え、判断することが自分の心を大切にすることです。
これ以上関わりあうことは、互いを傷つけあうだけと判断したなら、勇気をもって別れる、離れる。様々な事情ですぐに行動に移せなかったとしても、心の整理と決断はできます。これが成熟した大人の判断のように思います。
勿論これは、恋愛や結婚だけに限りません。人間関係全般、人生全般において同じことです。