「どうやったら生き延びられるか」を学習し続ける脳
「男はみんな浮氣する」
「太ったら嫌われる」
「学校に行けばいじめられる」
・・・このような言葉を聞くと、人はえてして
「皆が皆浮氣するわけじゃないよ!」
「太っていても好かれている人はいるよ!」
「優しいクラスメートだっているよ!」
などと「相手を救おうとして」お説教をしたくなります。
しかし、これで解決するのなら、心理セラピーはこの世に必要ありません。
勿論現実には、全ての男性が浮氣(何をもって浮氣とするのかは、今はおいておきます)するわけではありませんし、太めの体形の人気者はたくさんいますし、どんな学校にもいじめなどしない心優しい生徒はいるでしょう。
相手も「頭では」、この現実を理解できないわけではありません。しかし心では納得出来ません。納得できないと行動が変わらず、行動が変わらないとその人の人生に変化は起きません。
一体何故でしょうか・・・?
それは人間の脳が「正しいか、正しくないか」「現実か、そうでないのか」ではなく、「どうやったら生き延びられるか」を学習し続けるためだからです。
生物の二大使命は、「生き延びること」「子孫を残すこと」です。例外はありません。ですので人間の脳も、「正しいことを学習するため」ではなく、「生き延びるため」「子孫を残すため」にあるのです。
そして「今の自分にとって生き延びるために最善の方法は何か」を探し出し、インプットし続けます。
「男はみんな浮氣する」も
「太ったら嫌われる」も
「学校に行けばいじめられる」も
その人が生き延びるために選んだ、現時点での最善の学習の成果なのです。
最善とは、ひとつだということです。「男はみんな浮氣する」と同時に「浮氣しない人もいる」とは考えませんし、「太ったら嫌われる」と同時に「太っていても好かれる」とは考えません。
脳の学習の4つの動機
脳は「生き延びるため」「子孫を残すため」の学習をし続けます。
その動機は4つ、
「食欲を満たす」
「性欲を満たす」
「恐怖を避ける」
「好奇心を満たす」
です。
このいずれかの動機、ドライバーが押されなければ、脳は新たな学習という、エネルギーが必要で面倒くさいことをやりたがりません。人間の脳は、一日の摂取カロリーの20%を消費します。人間を含めた動物の体は、「飢餓に対応するように」できているので、できるだけ省エネをしたがります。「生き延びるため」「子孫を残すため」に必要でないと脳が判断したら、即ち上記の4つのドライバーが押されなければ、脳はカロリーを使うことを極力避けて、自動的に飢餓に備えようとします。
子供に勉強をさせるのに、「宿題を終えたらおやつを与える」のは「食欲を満たす」動機で学ばせようとしています。
「脅して勉強させる」のは「恐怖を避ける」動機を使っています。
賢い教師はおやつで釣ることも、脅すこともせず、「好奇心を刺激して」子供たちを学びに向かわせます。
冒頭にあげたような信念は、「恐怖を避ける」ために学習して得たものです。
ですから、お説教でこの信念を取り除こうとされると、「生き延びていけない!」恐怖を脳は感じてしまいます。お説教されればされるほど、恐怖を避けるためにその信念に余計にしがみつくのはそのためです。
「男はみんな浮氣するものだ。(だから恋愛なんてもうこりごり)」と思っていれば、恋愛しなければ「浮氣される恐怖」を避けることが出来ます。
「太ったら嫌われる。(だから痩せていれば嫌われない)」と思っていれば、体重を増やさなければ「嫌われる恐怖」を避けることが出来ます。
「学校に行けばいじめられる(だから学校は恐ろしいところだ)」と思っていれば、学校に行きさえしなければ「いじめられる恐怖」を避けることが出来ます。
そして恐怖を避けて、何とか生き延びようとしているのです。
まず相手が感じた「恐怖」を受け止めること
冒頭にあげた信念を持っている人たちは、現実にそれが起こったかどうかは別として、「浮気された恐怖」「(太ったせいで)嫌われた恐怖」「学校でいじめられた恐怖」を脳が感じてしまっています。
(「太ったせいで他人から嫌われた」ことは、実際には起きていない方が多いようです。むしろ他ならぬ自分自身が「太っている自分を受け入れられない」ため、「太ると受け入れられない、嫌われる」恐怖を自分で作り上げているケースがほとんどです。)
相手に必ずしも同意や同情をしなくて構いません。同意すると、これらの制限的な信念を却って強化してしまいます(「そうよね、男ってみんな浮気するよね」)。また同情はともすると憐憫に陥りやすく、「上から目線」になりかねません(「わあ、かわいそうに、ひどいよね~」)。理解のない同情は、「この人、同情してくれるけれど、理解してはくれない!」と却って不信感を生むこともあります。
「相手の脳が恐怖を感じている」事実を理解し、受け入れる、共感が最も必要です。
「そんなに嫌な思いをしたのね」「本当に怖かったんだ」
これは「良い・悪い」の評価ではなく、相手が「何を感じているのか」を受け止め、そのままフィードバックしている態度です。
この評価をせずに、そのままフィードバックするには、まずは自分自身が「自分の中のどんな感情でも受け止める習慣」と、「通りすがりの人のように物事を眺める」客観視の姿勢が必要です。
相手が「よりよく生き延びられる新しい選択肢」を望んでいるか
人が新しい選択肢や信念を受け入れるのは、「こちらの方が自分がよりよく生き延びられる」とその人の脳が納得した時だけです。
不幸で不自由な方が、責任を取らずに楽ができる、それがより良い生き延び方だと思っていれば、自分からどんどん不幸で不自由になります。不幸好き、とはこうしたことです。
相手が「新しい選択肢」を望んでいないうちは、お説教も提案もアドバイスも、こちらがどんなに善意のつもりであっても抵抗が起きます。
「生き延びるために最善を尽くしている」ことを、否定されたと受け取ってしまうからです。
身近な存在であればあるほど、相手を大事に思えば思うほど、「あんたそんなことでいいのか」と言いたくなります。その気持ちは万人捨てがたいものですが、縁なき衆生は度し難し(救いがたい)とはこうしたことです。
「友達を大事にしなさい」よりも「何故友達を大事にすることが、大事なのか」
車が急に飛び出してきた、娘が付き合っている男はどう見ても怪しい、おかしいなど、生命やその人の尊厳にかかわることは、「危ない!何してるの!」と腕を引っ張り、時には頬を叩いて目を覚まさせなくてはなりません。
しかし大人の人生は、最終的にはその人にしか選べません。ですから、「こうするべきだ」と思うこと(例:友達を大事に/約束を守る/勉強する)が、何故大事なのか、それをしないことが何故その人にとって良くないことなのかを、言葉を尽くして、相手に伝わるように、伝える努力がまず必要です。その際、例え話や経験談などのストーリーを話すと効果的です。
そして最後は、相手に選択を委ねます。相手が「そうした方が、自分がよりよく生き延びられる」と納得できれば、それをおのずと選びます。人は自分が自主的に選んだことは、疑いません。
だからこそ、自分がそれを大事に生きているか、つまり言行一致しているかが問われます。
人は「友達を大事にしなさい」「勉強しなさい」よりも、「何故友達を大事にすることが、大事なのか」「何故勉強することが大事なのか」に心が動きます。それが自分にとって大事だ、と感じられたら、人は「それをした方が、自分がよりよく生き延びられる」と納得します。友達を大事にすることを、勉強することを、自分が生きている、その姿勢に勝る説得材料はありません。
この本の内容そのものについては、以下に貼付したTEDのプレゼンテーション動画が、非常に端的にまとめています。素晴らしいプレゼンテーションなので、ぜひ一度ご覧頂ければと思います。[blogcard url=https://www.ted.[…]
「直接救おうとする」ことは時として「相手を変えようとすること」になりかねません。
「あんたわかってないようだから、私よりも無力だから、私の言う通りにしておけばいいのよ」という上から目線のメッセージを受け取ってしまいかねないのです。
そうすると相手の自尊心は著しく傷つきます。反発するガッツがあればまだいいのですが、依存を生み出すこともあり得ます。
「わたし・・・ただ、誰かのお役に立ちたいんです」
「きとくなことねえ。他のご婦人がたは優越感と暇つぶしのためにやってるわ」
「でも・・・それで少しでも恵まれない人たちが助かるのなら・・」
「かえって毒になることもあるわ。そう!彼らから気力とプライドを奪っているのはわたしたちかもしれなくてよ」(池田理代子「オルフェウスの窓」より)
相手が感じた恐怖をそのまま受け止めること、そして「何故、それが大事か」を伝わるように、伝えられること。これも単なるテクニックではなく、私たちの生き方が問われています。