第二層の構造理解だけでは限界に突き当たる時
自尊感情を高める習慣②で取り上げた、第二層の構造理解は「感情受容+理性的な整理+責任の拡張」ですが、平時はこれだけでもかなりの領域で対応できるでしょう。第二層へ昇れる人は、残念ながら実際には少なく、全体の1~2割程度に留まるのではと私見では思います。
ですが、平時だけの人生はやはりありません。個人的・社会的危機が訪れた時、第二層の構造理解だけでは限界に突き当たります。その限界を突破するには第三層の「倫理観・哲学・宗教性」の領域に進まないと、根本解決にはならないように思います。
第三層:倫理観・哲学・宗教性⇒不可逆的変容の領域
この第三層は、哲学書を読んだり、特定の宗教を信仰したりしなければならない、というものでは必ずしもありません。以下の問いを、自ずと内面で抱えているかが問われます。
倫理観:「自分はどうありたいか」
哲学:「自分はどう生きるか」
宗教性:「生きるとは何か」

第二層はある程度、他人がスキルを教えたり、一緒に整理することもできます。しかし第三層は、自分が自分に問う領域であり、あらかじめ決まった答えはありません。他人は答えを探したり提示したりよりも、「共に抱え直す場」として機能します。倫理観や哲学は、ある程度言語化はできますが、全てを言いきれるものではやはりありません。また「生きるとは何か」には答えはなく、問いそのものを抱えて生きることが求められるものです。
「正義を振りかざす」という言い回しはあっても、「倫理を振りかざす」とは言いません。正義感は、その人の倫理観の土台に支えられていると、仮に語氣は強かったとしても、「この人は命がけで訴えている」と心に響くものになります。しかしこれも、受け手の感受に大きく依存し、盲従や「損か得か」の第一層でグルグルで生きている人には中々通じないもののようです。
職場での改善などの「損得改善」は大半の人はやりますが、深い自己反省ができる人は、残念ながら実は少ないのです。この深い自己反省、不可逆的変容(後戻りができない、精神が決定的に変容すること)はこの第三層でしか起きない、と言って良いと思います。と言うのは、第二層の領域は、時代や状況の変化に影響を受けやすいのですが、第三層は普遍的な領域であり、不可逆的変容とは人間精神の普遍性に根差したものだからです。
第二層と第三層の境界線の違い
第二層と第三層の違いの一つは、境界線「No」と言うことに顕著に現れます。境界線を引く行為そのものは、基本的に第二層の「整理・秩序」の領域に属します。しかし「なぜ『No』を言わなければならないのか」という深い動機づけは、第三層に根ざしていると考えるのが自然です。
第二層(境界線を引く技法)
目的:無駄な消耗を避け、秩序を保つ。
行為:「ここまでは私の責任」「ここから先は他人の領域」と線を引く。
特徴:現実的・実務的な整理。
例:「今日はもう時間がないので、ここまでにします」
第三層(「No」の深い動機)
目的:自分の尊厳や存在の深みを守る。
行為:「矛盾を抱え続けるために、安易な同調や迎合を拒む」
特徴:単なる効率や安心ではなく、存在そのものを支える理由。
例:「その場に迎合すれば楽だが、自分の尊厳を失うのでNoと言う」
第二層の「No」と第三層の「No」の違いのまとめ
第二層の「No」:
⇒体力や時間を守るため、現実的に必要だから。
第三層の「No」:
⇒ 自分の尊厳を守り、矛盾を抱える姿勢を失わないため。
つまり、第二層の境界線は「方法」であり、第三層の動機は「存在理由」です。
第二層の境界線は技法として身につければ葛藤は減りますが、第三層の境界線は「尊厳を守るための拒否」であり、深い懊悩を伴います。だからこそ第三層の「No」は単なる防御ではなく、人間存在の成熟した表現になるのです。
全人生を賭けて拒絶しなければならない時
上記の具体例として、2021年9月の、カナダのある大学の倫理学教授・ジュリー・ペネッシ教授の短い「最後の授業」を取り上げます。ペネッシ教授はコロナワクチン接種を拒絶し、その代償として大学を追われました。
ペネッシ教授にとっては、「生理食塩水に差し替えてもらえばいい」とか、「医師に診断書を書いてもらって、接種を回避すればいい」という問題ではなかったのでしょう。「ワクチンを打たなければ仕事を取り上げられる」人権侵害そのものを、彼女の全人生を賭けて拒絶しなければならなかった。その尊厳を守る拒否だったのです。
ここまで読まれた方の中には「事実上ワクチン接種を強制され、その時は『まさか』と自分に言い聞かせて打ってしまった」方もいらっしゃるかもしれません。ワクチンを打った方もそうでない方も、その事情を理解することと、「強制されたら仕方がないよね」の違いを、今一度、内面で響かせて頂ければと思います。そのことが、今後の社会にこのような人権侵害を二度と許さない礎になるかもしれません。
第三層の「No」は「私の命が『これは間違っている』と叫んでいる」ということ
第三層の人達の「No」は、往々にして理解されず、時には「頑固」「空氣読まない」「合わせておけばいいのに」といった批判にさらされやすいです。コロナ騒動においては「アタオカの反ワク」の中傷が典型でした。
こうした批判や中傷を一蹴できるためにこそ、危機の前から「自分はどうありたいか」「自分はどう生きるか」を自分に問い続ける、その首尾一貫性が不可欠になります。首尾一貫性に乏しいと、そもそも「これっておかしくない?」の問いが立ち上がりません。「2019年以前は何だったんだ」とか、「他にもいくらでも怖い感染症があるのに、何で?」といった問いを持てず、外側から与えられた正解(「マスクしてワクチンを打てば、あなたは非難されないんですよ」)に人は盲目的に依存しやすくなります。
平時の頃から、第二層の「No」が言えることも勿論必要です。訪問セールスを断れないのに、ワクチン接種の強制は尚のこと断れません。しかし、第二層の「No」だけでは、やはり命と尊厳を守るには足りません。
「私の命が『これは間違っている』と叫んでいる」この深く強い動機があればこそ、様々な迫害に耐えることができる。コロナ騒動の不条理に国を超えて抗った人々の姿は、正にそれを証ししたように思います。
最終的には宗教性・しかし到達する人は稀
人は苦しみそのものより、苦しみに意味を見いだせないことに苦しむものかもしれません。誠実に努力する人ほど「やった甲斐があった」と思いたいのは、そうした心理の反映でしょう。しかし私たちの人生は、「やった甲斐があった」と思えることばかりでは当然ありません。
ペネッシ教授の動画は、全世界中に拡散され、多くの反響を呼びました。それでもなお、ペネッシ教授の最後の涙は、無念としか言い表せないものだと思います。
倫理や哲学では超えられない無念、この世の不条理、そうしたものに直面すると、その中の更に限られた人たちは、その限界を宗教性によって超えようとします。この宗教性とは、特定の宗教の信者になることでは必ずしもありません。信仰が慰めに過ぎなかったり、或いは教義依存になれば、それは「第三層を装った第一層のグルグル回り」になってしまいかねません。
宗教性に至るには、子供の頃からの内省や沈黙の習慣、読書経験、青年期や成人初期に第三層の成熟した大人との出会いと対話、そして何よりも限界体験と、時に数年に及ぶ葛藤懊悩が必要とされるでしょう。葛藤懊悩と不平不満は異なります。不平不満は「第一層の中でエネルギーを外に流し、責任を外に投げる」ことに外ならず、葛藤懊悩は苦しくとも自分を押し上げるエネルギーになります。ただこれは、表面に現れる言葉だけでは判断できません。「あいつ死んでしまえ!」といった激しい恨みが時には出ても、その背後に「事実と感情を抱え直そうとする態度」が滲んでいるかどうかです。
宗教性にまで至る人は、いつの時代も稀なようです。宗教性に富んだ作品が「響く人には一生響き、響かない人には響かない」宿命を負うのと表裏一体です。その少数の人が、周囲からの理解は中々得られにくくても、目立たない場であっても、精神文化の礎を担ってきた、人間の歴史はその繰り返しのように思います。
