誰もがわかっている「過去と他人は変えられない」
「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる」多くの人が一度は聞いたことがある言葉でしょう。
誰もがわかっていても、何か事が起こるとやはり「相手を変えたくなる、変わってほしいと願ってしまう」人間はそうしたものだと思います。
「変わってほしい」と願うのは、相手に期待があればこそです。
私は長年百貨店に勤務していましたが、よくお客様からお叱りの声を頂きました。「大丸さんともあろうものが・・」と叱って下さるのはありがたいことです。見限られたら「黙って他店へ」。本当はその方が怖いのです。
また、今コロナ騒動の最中、家族にワクチン接種を何としても思いとどまってほしいと、時には掴み合いの喧嘩になっても「変えようとする」のは、大事な人を守りたいからです。決して自分のエゴのためではありません。
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中には「もう見限った」人もいます。見限れれば楽になるかもしれませんが、それに至るまでの葛藤と無念、失望と悲しみは察して余りあります。
「変わってほしい」と普通の人間は願うもの
ごくごく普通の人間は「変わってほしい」と願うものではないでしょうか?だからこそ、少数派でももう少数ではない人々が、コロナの嘘と、ワクチン接種、引いてはワクチンパスポートに反対の声を挙げ続けます。世の中の一人でも多くの人に、気づき、変わってほしいからです。
中々変わらない相手にイライラもし、「いい加減にしろ!」と時には叫びたくなる、それも当たり前の人間の様相です。
神さまでも仏さまでもない、そんなに寛容になり切れない自分を知り、受け入れる。これは開き直りではありません。今後どうしていくかの新たなスタートラインに立つためのものです。
「どう変わってほしかったか?」の動機を掘り下げる
「相手は変わらない、でも変わってほしい」だけに意識が向くと、堂々巡りになります。「どう変わってほしかったか」を考え、その動機を掘り下げると、誰でもない自分の本音に気が付きます。
30歳を過ぎたある女性の父親が、自分の友人たちの子供が結婚したり孫ができたりのニュースを聞いて「肩身が狭い」と漏らしました。それを聞いた当の女性は、黙ってはいたものの何とも嫌な気持ちがしました。
このケースでは、父娘ともに「相手に変わってほしい」と口に出す出さないは別として、願っていました。
父親は娘に「結婚してほしい」
娘は父親に「それって私の幸せを願ってるんじゃなくて、自分の世間体を気にしてるんじゃないの?世間体ではなく私の幸せを願ってほしい」
大事なのは「何故そうしてほしかったか」の動機の方です。この場合で言えば、結婚するしないではありません。
相手を動かしたい気持ちが強い時は、多くの場合、自分の不安が動機になっています。不安を解消したくて「もっとこうしてよ!なんでこうしないの⁉」と思っています。
不安とは何かを恐れる気持ちですが、何を恐れているのか、つまり「不安の中身」が問われます。
上記の例で言えば、父親は自分の世間体を、娘は父親が自分の幸せを優先していないことを恐れていました。
ここにそれぞれの価値観が反映されています。生き方と言ってもいいでしょう。
言葉を尽くしても「超えられない壁」の二つの要因
孫子の兵法に「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」という有名な言葉があります。「こんなこと当たり前だ」と思っていても、やはり百戦百勝にならないのは、これが至難の業だからです。
殊に人は、つい自分の尺度で物事を推し量ってしまいます。「これくらいわかるでしょう。これくらいできるでしょう」「なんでわからないの。できないの」
経験や訓練を積まないとわからない、できないことには、比較的寛容になれるかもしれません。何故なら「かつては自分もそうだった」とその記憶があるからです。しかしそうではないことには「何でなの⁉」と思いがちです。
つい自分の尺度で測り、そしてどんなに言葉を尽くしても相手が理解しない要因に、大きく分けて以下の二つがあります。一つは「現実を把握する知性」、もう一つは「人間観」です。両方とも目には見えず、また学校の成績などで推し量れるものではありません。この二つが大きく食い違うと「超えられない壁」が生じます。
現実を把握する知性
知性とはそもそも「現実を把握する」ためのもの、そして基礎教育はそのために行うものです。文章やグラフを読んで意味が分かる、相手が何を伝えようとしているのか分かる、基礎的な一般教養が身についている、これらはテストのためではなく、実生活で「現実を把握する」力そのものです。
しかし学校時代の成績とは無関係に、「現実を把握する力」は個人差が非常に激しいです。寧ろ、「テストのために勉強していた人」ほどその力が弱いようです。
「こうなったら、次はこうなるよね」の結果予測や、「これはどう考えてもつじつまが合わない」と整合性が取れているかに気づく力は、自発的に物事に向き合う態度に裏打ちされます。現実を把握するとは、こうした頭の体操を「自分から」行うことです。
学校のテストのような「あらかじめ決まった正解を答える」のは、受け身の態度です。それが引いては「偉い人の言う通りにしておけば間違いない。それが正解」「だってTVが、会社が、行政が、みんながそう言うから、してるから」の責任転嫁の言いなり、指示待ち体質になってしまいます。指示待ち体質とは「正解を与えてもらう態度」です。これでは自分の目で、耳で、頭で、現実を把握する力は育ちようがありません。
現実を把握する知性に「超えられない壁」が時として生じるのは、持って生まれた知能の差というより、能動的か受動的かの習慣の差によるものでしょう。悪い意味での受け身で生きてしまうと、能動的な方の脳の神経細胞がちょんぎれてしまい、退化するのだと思われます。この退化は若い人にも生じます。
退化してしまった脳に、どんなに言葉で説明しても入って行かないのはこうした理由でしょう。
人間観
人間は感情の動物であり、また社会の中でのみ生きていけます。ですから、人と人との関わり合いの中で、感情の軋轢が生じるのが当然です。つまり葛藤です。
この葛藤から逃げてばかりだと、人の心を理解することはできません。若いころの読書経験も大切ですが、万巻の書を読破すれば人の心がわかるか、と言えばそれも違います。
嫌われたくないと良い人ぶったり、波風を立てないことばかりを優先していては、それは葛藤から逃げているに過ぎません。生の葛藤から、私たちは血の通った人間観を養えます。裏から言えば、葛藤から逃げれば逃げるほど、その時は傷つかずに済んでも、薄っぺらな人間観になります。その薄っぺらな人間観で世界を推し量れば、薄っぺらな人生しか生きられません。そしてますます薄っぺらな人間観になる悪循環が生じます。
また、「人の悪口を言ってはいけない」には落とし穴があって、時として「バラ色の眼鏡をかけて相手を見る」「現実を見ずに相手をかばう」になりかねません。誹謗中傷をして相手を貶めることと、「相手のエゴのためにこうしたことが引き起こされた」その事実を正確に見ようとするのは別のことです。相手をかばった方が自分が傷つかずに済む、これも実は葛藤から逃げています。
人は「馬の耳に念仏」「猫に小判」「豚に真珠」をやってしまうもの
上記の「現実を把握する知性」「人間観」は、言葉で説明しきれない類のものです。だからこそ「目に見えない超えられない壁」が生じます。
「馬の耳に念仏」「猫に小判」「豚に真珠」誰でも聞いたことのある、子供でも知っていることわざです。しかしこれらは「わかっていてもやってしまう」最たるものでしょう。
自尊感情において大事なことは「私はやりません!」ではなく、ともすると何度でもやってしまう自分を「なかったことにしない」です。
人に変わってほしいと思ったとき、それに潜む自分の価値観を掘り下げてみる、その価値観が貴方のペルソナの一つです。そうやって自分を知ることができます。
そしてどんなに言葉と思いを尽くしても「超えられない壁」は生じます。「超えられない壁」は悲しいけれど、否が応でもある。それは知識のお勉強ではなく、葛藤から逃げないことによってのみ、体得できるのだと思います。