就活や営業で断られることが続くと
就活や営業で、何度も断られることが続く、このこと自体は「誰もあらかじめ望みはしないこと」です。
誰だって、面接には受かりたいですし、断られたくて営業をする人はいません。
ですから、断られたこと自体を残念に思うのは当然です。
しかし、まるで自分自身がダメだと言われたような気分になってしまうと、就活や営業そのものが辛く、時には怖くなってしまいかねません。
一方で、何度断られてもめげずに続けられる人もいます。
よく売る営業マンは、百発百中で商談をまとめているのではありません。
成約率は平均より高いでしょう。それでも平均の倍とか三倍とかの成約率にはなっていない筈です。
それよりも、めげずにアプローチする、断られても腐らず、次のお客様にアポを入れ続けられればこそ、売り上げを上げられます。
断られるとめげてしまう人と、めげない人はどのように違うのでしょうか・・・?
両者の意識の差はどこにあるのでしょうか・・・?
人が何かを欲しがる時の3つの要素
「この商品やサービス、絶対いいはずなのに・・・!」「どうしてわかってくれないのだろう?買ってもらえないのだろう?」
「何とかして買ってもらおう」と頑張り過ぎてしまうと、このような考えが浮かんできてしまうかもしれません。
意気込みは意気込みとして、まずリラックスして、視点を変えて考えてみましょう。
人が何かを欲しいと思う時、物でもサービスでも、誰かを雇う時でも、「素晴らしいから」という理由だけで手に入れようとするわけではありません。ですから、断られる=物やサービスがダメ、とは限りません。まして営業マンがダメ、とも限りません。物やサービスや営業マンがダメで断られることは、数多くの可能性の一つに過ぎません。
人は以下の3つの要素が揃った時に、物でもサービスでも、新たな従業員でも、手に入れようとします。普段はあまり意識はしていませんが、いずれか一つでも欠けていると、手に入れようとはしません。
例えば、ハンドクリームを例に挙げてみます。
1.信頼・信用
どこのどなたとも知れない人が「これは素晴らしいハンドクリームですよ!」といきなり勧めてきても、「本当に大丈夫かな?なんかあやしい・・」と思うと、買おうとはしないでしょう。
毎日使うもの、しかも肌に直接触れるものだからこそ、たとえ数百円のものでも信頼できる品を買おうとします。
いつも使っているとか、良く知られたブランドとか、或いは商品やブランドは初めてだけれど、扱っているお店が信用できるとか、信用できる人が勧めてくれたとかで買おうとします。
「これを使っても大丈夫だ」という信頼・信用がまず必須です。
2.価値観
一口にハンドクリームと言っても、お値段はピン切りです。数百円から、物によっては数千円するものもあります。
ハンドクリームにいくら出すか、勿論購買力もありますが、それ以上にその人の価値観が左右します。
これは良い悪いではなく、その人がハンドクリームに対する価値をどの程度においているかです。
数百円で充分だと思っている人に、数千円のハンドクリームを勧めても「良いのはわかるんですけどね、でも・・・」になりますし、普段数千円のハンドクリームを使っている人に、数百円のものを勧めても、これもまた買ってもらえません。
またそもそも、ハンドクリームを使うことがない人に、無理に勧めても中々買ってもらえません。ハンドクリームそのものが、自分の日常において価値があり、必要だと思わないと、どんなに良い物でも買おうとはしません。
3.タイミング
信頼・信用も充分、お値段もその人の価値観にぴったりだとしても、そう幾つもハンドクリームは必要ではありません。
「家にまだある」「買ったばかり」のタイミングでは、通常買おうとはしません。
その時たまたま、いつも使っているハンドクリームが安く売られていたら、多少買いだめすることはあるかもしれません。
それでも一時に10本も20本も買うことは考えにくいでしょう。
価値観とタイミングは「相手のもの」、こちらは信頼・信用を「高める」努力は出来る
上記3つのうち、価値観とタイミングは、完全に「相手のもの」です。こちらがどうこうすることはできません。
また信頼・信用を「高める」努力はできますが、「信頼できる・信用できる」と感じるのもまた、相手の領域です。
これは就活などで、「自分自身を売り込む」場合も同じです。
私はセラピストして、クライアント様に「雇って」頂いています。しかし、お寿司屋さんに寿司職人としては「雇って」はもらえません。これは寿司職人としての信頼・信用はないからで、私個人が「悪い」「劣っている」ためではありません。寿司職人として雇われたいなら、その信頼・信用を高める努力が必要だ、ということです。
私たちは、商品やサービス、時には自分自身の信頼と信用を高め、価値観やタイミングの合いそうなお客様にアプローチする、ここまでしかできません。
めげない人は「自分は全てをコントロールできない」が腑に落ちている人
めげない人は、「自分が出来ることと出来ないこと」の区分けを理解しています。
自分は全てをコントロールできるわけではないこと、力を及ぼせる範囲は限られていることが腑に落ちています。
断られると残念には思いますが、あくまでそれは相手の領域だとわかっています。相手にも断る自由と権利があることを尊重しています。
だからこそ「自分が出来ること」に集中し、工夫しようとします。そして結果的に、売り上げを上げられたり、面接に合格したりします。
めげてしまう人は「自分ではどうにもできないこと」「相手の領域であること」にまで自分がどうにかできる筈だ、と心のどこかで思っています。
だからこそ、断られると自分のせい、自分が悪かったのだと思い違いをしてしまいます。まるで、雨が降っても自分のせいであるかのように。
そして相手の領域のはずのことに、いつまでもクヨクヨしてしまい、肝心の「自分が出来る努力」がおろそかになり、めげない人に水をあけられてしまいます。
これは実は、幼児的万能感が抜けきっていないためでもあります。幼児的万能感とは「自分は世界の中心にいて、自分の望むように物事をコントロールできるはずだ」と心の奥底で思い込んでいる状態です。
いじめの根源「幼児的万能感」何故人は自分いじめをするのでしょう?もしくは他人いじめをするのでしょう?自分いじめも他人いじめも根は同じです。自分を真の意味で大切にしている人は、他人も大事にできます。他人をいじめる、コントロールする[…]
自尊感情とは「転んでなんぼ」「失敗してなんぼ」「恥かいてなんぼ」と思えること
自尊感情を高める、即ちあるがままの自分を大切にすることは、自分の限界や小ささを受け入れながら生きるということです。
自分には限界がある、この当たり前のことを、真から腑に落として生きている人は実はそう多くありません。
人は知らず知らずのうちに、自分のものの見方だけが正しく、自分は何でもできるはずで、世界を自分の都合のよいようにコントロールせずには気が済まない専制君主になりたがろうとします。
「人から嫌われたくない」が強すぎる場合も、実は根底には「世界の専制君主でいたい」が潜んでいます。相手が自分を好きになるか嫌いになるかは、完全に相手の領域、これがどこかに吹っ飛んでいます。
好かれたからと言って、必ずしも自分が優れているわけでも、嫌われたからと言って劣っているわけでもありません。「相手にとって利用価値のある、都合の良い人間だから」好かれている、ということもあるでしょう。嫌われるのは「相手にとって耳の痛いことを勇気をもって告げる」から、ということもあります。
「世界の専制君主でいたい」人ほど、めげてしまいやすいのです。「上手く行かなくて当たり前」「断られるのが当たり前」「嫌われたり、誤解されることがあるのも当たり前」とは思えないからです。
現実には、どんなにその人が優れた良い人であっても、「転んでなんぼ」「失敗してなんぼ」「恥かいてなんぼ」です。
転ばないとわからないこともたくさんあります。子供時代に、失敗こそ得難い財産だと励まされて育った人は、何にも代えがたい宝を手に入れているでしょう。
困難を恐れず、成長できる人ほど、このことがよくわかっています。
断られるのは、私たちが全知全能の神ではない証拠です。
自尊感情が高い人ほど、謙虚で前向き、つまりめげない人であるのは、こうした理由だからなのです。