「もっと肩の力を抜いたら?」と言われても
人から「もっと肩の力を抜いたら?」と言われて、自分でもそうした方がもっと上手くいくだろう、と何となくわかっていてもできない・・・そういう人も多いでしょう。
そういう人は、まず真面目で一生懸命ですし、人や事に対して誠実でありたいと思っていることでしょう。
「面倒なことは他人に押し付け、手柄は横取りして平気」な人ではない筈です。
周囲からの信頼も厚く、いわゆる「いい人」でもあるでしょう。
そして信頼されればされるほど、期待されればされるほど、今度はそれに応えなきゃ!とまた頑張ってしまうかもしれません。
人から信頼され、期待されるのは嬉しい反面、プレッシャーになることもあります。
しかし世の中には、信頼や期待を受けつつ、プレッシャーが全くないわけではないけれど、肩の力を抜き、なおかつ誠実な努力が出来る人もいます。
そういう人は、自分に対して何をやっているのでしょうか?
どのようにすれば、誠実な努力をすることと、肩の力を抜くことは両立できるのでしょうか・・・?
条件付きで自分を認めていると、肩の力は抜けない
つい肩に力が入ってしまう場合、行動の動機には誠実さもありますが、それと同時に恐れもあります。
私たち人間は、恐れを感じると自分を守ろうとして反射的に肩に力を入れてしまいます。肩が上がり、呼吸が浅くなります。
リラックスして、安心しながら肩に力を入れようとしてもできません。
「期待に応えられる自分でなければ認められない」とか、「失敗したくない、失敗する自分は恥ずかしい、認めたくない」などの恐れがあると肩に力が入ってしまいます。
「こういう自分じゃなきゃ認めてやらないぞ!」を自分にやっているうちは、温泉につかろうが、ヨガや瞑想をしようが、その時だけですぐに元の木阿弥になってしまいます。
時折何億という負債を抱えながらも、くよくよせずに結果的に借金を返せる人がいます。勿論、何年も、何十年もかかってはいますが。それは「負債を抱えた自分」をいじめもせず、かと言って目をそらすこともなく、「長い人生、そういう時期もあるよね」と受け入れていればこそでしょう。これが「どんな自分も自分」ということです。
迷惑をかけた周囲にお詫びし、報いたい気持ちがあればこそ、「失敗した自分」に率直に向き合っています。また「失敗した自分」を、それ以上でもそれ以下でもなく率直に受け止めればこそ、そこから一歩を踏み出し続けます。そして結果的に借金を返せます。
「失敗した自分」を責めていじめるのは、真の誠実さではありません。「だって私がダメだから」と言い訳をして逃げているだけで、また何度でも同じことを繰り返してしまいます。
そしてまた、どんなに精一杯努力しても、結果をコントロールすることはできません、誰にも。
望み通りの結果にならなかったとしても、命を取られるわけではないし、そこからまた学べる、それもまた財産、味わい深いもの。
自分の手を汚したくない、責任を負いたくはないけれど口を出したい外野には、言いたいことを言わせておけばいい。どうせ彼らは何もしないし、暇で退屈で仕方がないのだから。
・・・こんな経験を積み重ねてこそ、仕事や学業の評価と、自分自身の評価を次第に切り離して考えられるようになります。
仕事や学業の評価と、自分自身の評価を同一視していると、あの人より自分は出来る・出来ないに振り回されてしまいます。
仕事はかりそめの役割、いつでも誰かに代わってもらえます。だから私たちは安心して、病気にもなれるし、忌引きで休むこともできます。
例えば、病院に入院する前は、「自分が抜けても大丈夫だろうか」と思っていたけれど、それなりに仕事は回っていくものだと知った、そういう経験をした方も多いでしょう。
しかしその人の「存在」そのものは、誰にも代わってもらえません。
そのままの自分を大切にすればこそ、命を懸けられる
脚本家・向田邦子の妹の和子さんは、このように書いています。
姉は自分自身をとても大切にしていたと思う。その大切な自分自身のすべてを仕事に投入していたのだから仕事は命懸けだったのだろう。
「向田邦子の青春」より
仕事で評価を得られたら、素晴らしい大切な自分になるのではなく、素晴らしい大切な自分だから、命を懸けられるのです。
そして評価はあくまでも結果です。
向田邦子も、仕事である以上視聴率や視聴者からの反応は気になっていたでしょう。結果をまるで気にしないのも、自己満足の仕事でないのなら不自然なことです。
しかし、命を懸けていることそのものの、命のきらめき以上に、価値のあるものなどあるでしょうか・・・?
肩の力を抜くことと、自分を大切にすることと、命懸けになることは繋がっている
命懸けとは、特定の仕事とは限りません。仕事をしていない時でも、二度と戻ってはこないこの瞬間、この邂逅に心を込めることでもあります。
この場とか、相手にとっての「正解」を演じようとしてしまうのは、「自分はそのままでいい」と心底思えていないからでしょう。
「正解」を演じればまた、「そのままの自分じゃ駄目なんだ」の自己虐待になってしまいます。その場はとりあえず丸く収まるにはせよ。
相手が善意の人ならまだいいのですが、それにつけこむ人はどこにでもいます。
そのままの自分を大切にすることと、力を抜いて楽にやることと、命懸けになることは繋がっています。
楽にやることは、楽をすることや、楽でいいとは違います。嫌なことから逃げ回ることでも、もちろんありません。
自尊感情が高まった生き方とは、こうしたことでもあるのです。