「もっと肩の力を抜いたら?」と言われても
人から「もっと肩の力を抜いたら?」と言われて、自分でもそうした方がもっと上手くいくだろう、と何となくわかっていてもできない・・・そういう人も多いでしょう。
そういう人は、まず真面目で一生懸命ですし、人や事に対して誠実でありたいと思っていることでしょう。「面倒なことは他人に押し付け、手柄は横取りして平気」な人ではない筈です。
周囲からの信頼も厚く、いわゆる「いい人」でもあるでしょう。そして信頼されればされるほど、期待されればされるほど、今度はそれに応えなきゃ!とまた頑張ってしまうかもしれません。
人から信頼され、期待されるのは嬉しい反面、プレッシャーにもなります。
しかし世の中には、信頼や期待を受けつつ、プレッシャーが全くないわけではないけれど、肩の力を抜き、なおかつ誠実な努力が出来る人もいます。
そういう人は、自分に対して何をやっているのでしょうか?
どのようにすれば、誠実な努力をすることと、肩の力を抜くことは両立できるのでしょうか・・・?
条件付きで自分を認めていると、肩の力は抜けない
つい肩に力が入ってしまう場合、行動の動機には恐れがあります。
私たち人間は、恐れを感じると自分を守ろうとして反射的に肩に力を入れてしまいます。肩が上がり、呼吸が浅くなります。リラックスして、安心しながら肩に力を入れようとしてもできません。
「期待に応えられる自分でなければ認められない」とか、「失敗したくない、失敗する自分は恥ずかしい、認めたくない」などの恐れがあると肩に力が入ってしまいます。
「こういう自分じゃなきゃ認めてやらないぞ!」を自分にやっているうちは、温泉につかろうが、ヨガや瞑想をしようが、その時だけですぐに元の木阿弥になってしまいます。
時折何億という負債を抱えながらも、くよくよせずに結果的に借金を返せる人がいます。それは「負債を抱えた自分」をいじめもせず、目をそらしてなかったことにもしていないからです。「負債を抱えた自分」もまた自分であり、それを否定するのは自分を否定することです。
これは開き直りではありません。迷惑をかけた周囲にお詫びし、報いたい気持ちがあればこそ、「失敗した自分」に率直に向き合っています。
スポーツであれば、負けてヘラヘラしているアスリートはアスリートとは言えません。勝てば飛び上がって喜び、負ければ泣いて悔しがる、それくらいでないと、そのスポーツに心血を注いでいるとは思えないでしょう。
「失敗した自分」をただ責めていじめるのは、真の誠実さではありません。「だって私がダメだから」と言い訳をして逃げているだけで、また何度でも同じことを繰り返してしまいます。そこには愛がないのです。
自分への愛、そして例えばスポーツならスポーツ、仕事なら仕事への愛があるから、「次はどうしたらいいのか」の建設的な反省、地道で細かい創意工夫ができるのです。
そのままの自分を大切にすればこそ、命を懸けられる
脚本家・向田邦子の妹の和子さんは、このように書いています。
姉は自分自身をとても大切にしていたと思う。その大切な自分自身のすべてを仕事に投入していたのだから仕事は命懸けだったのだろう。
「向田邦子の青春」より
仕事で評価を得られたら、素晴らしい大切な自分になるのではなく、素晴らしい大切な自分だから、命を懸けられるのです。
そして評価はあくまでも結果です。
向田邦子も、仕事である以上視聴率や視聴者からの反応は気になっていたでしょう。結果をまるで気にしないのも不自然なことです。
しかし、命を懸けていることそのものの、命のきらめき以上に、価値のあるものなどあるでしょうか・・・?
肩の力を抜くことと、自分を大切にすることと、命懸けになることは繋がっている
命懸けとは、特定の仕事とは限りません。仕事をしていない時でも、二度と戻ってはこないこの瞬間、この邂逅に心を込めることでもあります。つまり一期一会です。
自尊感情高く生きるとは、人生にリハーサルはないということです。仕事の優先順位はあるにせよ、いわゆる雑用はなく、「家族・身内だから、部下だから」であいさつや返事をおざなりにしない生き方です。愛は片手間で成せることではありません。
そのままの自分を大切にすることと、力を抜いて楽にやることと、命懸けになることは繋がっています。
その根底には愛があります。遠回りなようでも、愛が恐れを上回る生き方ができれば、自ずと努力と肩の力を抜くことは両立していきます。