「こんな人だと思わなかった!」孤独に耐える力と人間関係

同じことでも「近しい人」にされると嫌な気持ちになるのは

人は、同じイヤなことでも、遠い関係の人なら「そんなこともあるか」で済ませられますが、近しい人がそれをすると「何でアンタがそれをするの!」と腹を立てます。

例えば、ネットショッピングをしただけで、その会社から次から次へとメルマガを送られることがあります。
中にはメルマガの解除をしたのに、また送ってくる会社もあります。
確かに良い気持ちにはなりませんが、「ゴミ箱フォルダー」へ即入るように設定しておけば、それ以上そう感情は乱されないでしょう。

しかし比較的近しい人が、こちらが許可をしていないのに、同じように次々メルマガを送ってくると、「こんなことをする人だと思わなかった!」と残念に思い、傷つきます。

やっていることは同じなのに、何故より近しい人がすると人は傷つき、腹を立てるのでしょうか・・・?

アブラハム・マスローの欲求段階説

ところで、心理学者アブラハム・マスローの欲求段階説というものがあります。

人は低次の、より根源的な欲求を満たし、高次の欲求に移っていくというものです。

  • 生理的欲求・・・食欲、睡眠欲、排泄欲など、体の生理的な欲求
  • 安全・安心の欲求・・・心身の安全を確保したい、危険から身を守りたい欲求
  • 所属と愛の欲求・・・仲間が欲しい、居場所が欲しい、一人ぼっちは嫌だ、という欲求
  • 承認欲求・・・人に認められたい欲求、無視されたり、軽んじられることを辛く感じる欲求
  • 自己実現欲求・・・自分の能力を最大限に生かしたい、最大限の「成り得る自分」になりたい欲求
  • 自己超越欲求・・・自分自身や、自分の利益を超えた平和や神的存在へ心が向かうこと

これらの段階は、「コップに水を満たすのに、下の方からしか満ちていかない。下を飛ばしていきなり上の方に水は満ちない」とイメージしてするとわかりやすいでしょう。

しかしこの欲求段階説にも例外はあります。
最高次の「自己超越欲求」を生きている人であっても、当然生理的欲求もあれば安全・安心の欲求もあります。

そしてまた、人からちやほやされたから、承認欲求が満たされたから、自己実現欲求に入るのではなく、むしろその限界に気づいてこそ上の段階に入ります。

生理的欲求や安全・安心の欲求が充分満たされない社会にいても、自分を超えた神的存在のために自分を捧げる生き方をしている人も、古今東西決して少なくありません。

「所属と愛の欲求」は三番目に根源的な欲求

この中でも「所属と愛の欲求」は三番目に根源的なものです。犬や猫にも「所属と愛の欲求」はありますから、本能と言ってもいいでしょう。

時折、中学生くらいの子供が、遊び仲間に万引きや売春を強いられていた、という痛ましいニュースがあります。
この時必ず決まって、「(遊び仲間に)仲間外れにされたくなかった」という当の子供は話しています。

万引きや売春を強いられる屈辱よりも、仲間外れにされること、つまり「所属と愛の欲求」が満たされないことの方が、その子にとっては耐えられなかったのでしょう。

そして、その子にとっての居場所、「所属と愛の欲求」を満たしてくれる場が他にあったなら、このようなことにはならなかったでしょう。

その仲間は、その子を「所属」はさせてくれても「愛」してはいなかったでしょう。
しかし人間の脳は、まして子供は、「所属させてくれる=仲間=愛」と歪曲して意味づけしてしまいます。

家庭の中で自分の居場所を感じられない少女が、悪い男の甘言に騙されて体を任せてしまうといったことも、お説教では解決しない理由がここにあります。

その子供、その少女自身が、心の底から「自分には居場所がある」と感じ取っていなければ、また同じことを繰り返してしまいます。

「こんな人だと思わなかった!」の中身を掘り下げる

先の「近しい人がそれをすると腹が立つ」のは、この「所属と愛の欲求」が脅かされたためです。
所属と愛の欲求は三番目に根源的なものであり、また本能です。本能を脅かされると、心の奥底では「生きていけない」と感じてしまいます。本能も感情と同じく、理屈では割り切れません。

つまり孤独に耐えるのは、実は中々難しいのです。
孤独とは「一人でいること」ではありません。人は孤独を感じまいとして、一人でいることを選ぶことすらあります。

「こんな人だと思わなかった!」の中身は、「あなたは私の『所属と愛の欲求』を満たしてくれる筈だったのに!」ということです。
だからこそ、遠い関係性に対する怒りよりも、近しい人への怒りは根深く、また「何で(私の望むように)変わってくれないの!?」と責めてしまいます。
これはごく自然な心の動きで、それ自体に良い悪いはありません。

「何で変わってくれないの!?」の中身をよくよく振り返り、掘り下げてみましょう。「何で変わってくれないの?」の主語は相手です。相手のことは、推測はできても本当のところはわかりません。「私は貴方にこうしてほしかった」「私はそれをされると辛く感じる」など、「私」が何を望んだか、どう感じたかを紙に書きだすのも良い方法です。それらがどうしても譲れない事柄なら、それが貴方の生き方です。自分の生き方に安易に妥協してはいけません。

そしてそれらを、伝えられるか、伝えられないか、或いは伝えても相手が真摯に受け止めるかどうか、これも静かに考えてみましょう。この作業をすっ飛ばすと、いきなり相手に暴言を浴びせたくなってしまいます。それが全てにおいて悪いわけでもありませんが、やはり避けられるのならそれに越したことはありません。そしてこれがお互いの関係性の試金石です。「伝えられる間柄じゃない」「伝えたところで通じない」のなら、残念ながらそこまでの関係性です。

現実にはこのようにすっぱりと割り切れず、何度も葛藤するでしょう。葛藤は人間の心の成長において、非常に重要です。大事なことは、葛藤を「だって」「どうせ」と言い訳してなかったことにしないことです。

他人なら距離を開けるのは簡単でも、家族、特に夫婦は生活があり、一筋縄ではいかないものです。その際にも「自分にとっての優先順位は何か」を自分が決めておくことです。夫婦としては受け入れがたくても、子供の親としては決して悪くないから、子供が成人するまでは一緒にいる、など。この優先順位を付けないと「あれも足りない、これもしてくれない」とない物ねだりばかりになってしまいます。

「所属」は満たしていても「愛」はない関係性も

ところで先にあげた、万引きや売春を強要する遊び仲間や、甘言を弄して体の関係を持とうとする悪い男など、そもそも自分の価値観、信念、忍耐力やコミュニケーションの問題ではないことも現実にはあります。

人間の脳は意味づけをしたがります。一緒にいてくれる=仲間/恋人=愛がある、と現実は違うのに、そうした意味づけをしてしまいがちです。

確かに一緒にいてくれれば、「所属」の欲求は満たせたかもしれません。しかしその関係性に「愛」があったかどうか。「所属」は満たしていても「愛」はない関係性も、現実には大変多いです。

寂しさを紛らわせるため、或いは異性としての虚栄心や支配欲を満たすためだけの関係性は、「所属」ではあっても「愛」ではありません。

有力者や有名人の取り巻きもそうです。

facebookなどで相手のことを本当に知りたい、関係を大事にしたいわけではないのに、「有名人だから『友達』になりたがる」「相手を『数』としか見ていない。『友達』の数が多いことがステータスだと思ってる」も、「所属」ではあっても「愛」ではありません。

「所属ではあっても愛ではない」関係性を、自分に許し続けるかどうか、これも自分にしか決められません。人間関係の悩みは「相手との関係性をどうしたいか、自分が決めていない」から起きることが大半です。

「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる」(三木清)

人間関係のトラブルの根っこには、「孤独に耐えられない」が潜んでいます。
お互いを別の人格として、心から尊重し合える人同士であれば、単に考え方が違うだけでは、後々まで深く心が傷つくようなことにはなりません。

「自分のことしか考えていない」自己中心性は、「他者」を考えていないということです。「他者」を考えるということは、「自分とは違う存在」を考えること、それは孤独にさらされる一面があります。自己中心性とは、「他者を自分の延長だと考える」ことだからです。

人を支配せずにいられない、依存せずにいられない、余計なお節介を焼かずにいられないのは、自分が相手にしがみつこうとしています。「孤独に耐えられない」、「放っておかれることが何より怖い」からです。

「かまってちゃん」、またその裏返しの「かまわせてちゃん」はこの恐れを解消するために、他人を利用しています。この他人の筆頭が、しばしば子供や配偶者になります。

しかし、それをされて幸せになる人はこの世にいません。窒息しそうになるだけです。
また「かまってもらう」「かまわせてもらう」は一時しのぎになっても、結局は回り回って、その人自身をも不幸にします。

大人は「所属と愛の欲求」を自分で満たす

先の中学生の場合は、周囲の大人がその子を大事に愛し、「居場所がある」と心で感じ取ってもらう環境を作る必要があります。
これが、大人が子供に対して担う役目でしょう。

しかし大人の場合は、自分で自分にやっていく必要があります。これを放棄すると、上記の「かまってちゃん」「かまわせてちゃん」になってしまいます。
自分いじめが大好きな人ほど、他人からちやほやされたがり、かまってもらいたがります。

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自分のケアを自分ですることと、自分ならではの価値観、即ち「自分は何を大事にしたいのか」に沿って生きることで、徐々に自分の居場所が、誰でもない自分の内側にできあがってきます。

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大人になっても、ケアと居場所を他人に求め続けていると、「所属」はあっても「愛」はない関係に落ちてしまいかねません。

自分の虚栄心や支配欲を満たしたいために、異性に甘言を弄する人や、おべっか使いや、人を利用して平気な人が愛の仮面をかぶって近づいてくることがあります。
そして大人は誰も、誰かが自分の代わりに四六時中見張って守ってくれません。

自尊感情を高めるとは、孤独に耐える力を養うことでもあります。ですから、何もかもがルンルンで楽しい人生になることではありません。しかし、この孤独に耐える力を養っている人同士が、真の愛と信頼を育むことが出来ます。

自尊感情を高めるとは、このような陰影のある成熟した大人になっていくことなのです。

【音声版・自尊感情を高める習慣・6回コース】

1回約20分、6回コースの音声教材です。

第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

第1回目は無料で提供しています。まず一週間、毎日聴き、ワークに取り組んでみて下さい。その後更に日常の中で実践してみたくなったら、6回分の音声教材(税込5500円)をご購入下さい。

🔗第1回・要約・氣づきメモ

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。