蒔いた種は自分しか刈り取れない・分離の5つのヒント

人間関係の悩みの根本「自分と他人の分離ができていない」

人間関係の悩み、その中でも「自分と他人の分離ができていない」ことが、根本原因になっていることが非常に多いです。

特に親が子を自分の延長だと捉え、自分の思い通りになって当然だと考えている、そして親の思惑通りにならないことに、罪悪感を植え付け操作しようとする。このことに、子供の方は「親の思惑通りにならない、なりたくない自分」を肯定できず、中年以降になっても苦しめられるという構図が典型です。

操作は実は、何重にもオブラートをかけた脅迫です。操作された側は深く傷つきますが、操作する方には自分が相手を脅している自覚はありません。

支配、依存、執着。同じ目の高さに立って互いに協力し合うのではなく、自分より上か下かで人を判断する。人をかけがえのない「その人」ではなく、数としてしか捉えていない。利用価値があるかないかで人を判断する。わきまえがなくなり、人の心を土足で踏みにじる。これらは全て、自分と他人は独立した別の人格だということが心底腑に落ちていない、即ち分離ができていないために起こります。

そしてこうしたことに、大なり小なり傷ついたことのない人は、恐らくいないでしょう。

脳は「罰を加える/加えない」に快・不快を感じる

人は遠い他人であれば「いるよねえ、そういう人」で済ませられることでも、身近な、思い入れのある相手ほど「何であんたがそんなことをするのよ!」になりがちです。遠い他人には分離できる人でも、身近な相手だと中々難しく感じる、そうしたものでしょう。

特にその相手が、自分や他人を傷つけることをやめないでいると、「馬鹿野郎、いい加減目を覚ませ。あんたのためにならないじゃないか」と殴ってでも言いたくなる、でもそれを言ったところで相手は変わらない、という葛藤が生じます。他人が横から何かを言ったぐらいでやめるなら、そもそも最初からやりはしません。

では何故人はわかっていても、こうしたことを言いたくなってしまうのでしょうか・・・?

人間は他の動物と比べて格段に弱い肉体を持っています。そのために人間は、共同体を作り、互いに助け合うことで生き延びてきました。人間が社会的動物と言われるゆえんです。

そして共同体を維持するために、人間はルール、つまり「正しさ」を発明しました。ルールを守らない人には、ルールを守ってもらうよう変わってもらうか、或いは共同体から出て行ってもらうか、人間の歴史はそれの繰り返しです。共同体を守らないと、その共同体の人間全体が生き延びていけないからです。

そして「変わってもらう」ために罰を加えること、これは人間以外の動物では見られない行為です。動物は仲間内での縄張り争いや、オス同士がメスを争うために戦うことはありますが、「罰を加える」概念はありません。縄張り争いに負ければ、その縄張りから出て行かざるを得ませんが、それは「悪いことをしたため受ける罰」ではありません。

また人間の脳は、この「正しくないことをした人を罰する」ことに快感を、「正しくないことをした人をそのままにしておく」ことに不快を感じる(「何でそんなことするの!信じられない!」「ありえない!おかしいじゃないの!」)ようになっています。

実際にはこの「正しさ」は永遠不変のものではなく、状況や個人によっても変わります。つまり正確には「自分が『正しい』と思っていること」に過ぎません。しかし人は中々それを自覚してはいません。

そしてまた、思いやりが伴わない「正しさ」は、えてして人を追い詰めてしまいます。

ところで、「中々変わろうとしない人に罰を加える」という行為は、よく考えれば労多くして益のないことです。脳が「罰を加える/加えない」に快・不快を感じなければ、そもそもこの面倒な行為をやろうとはしません。

この脳の働きこそが、分離は誰にとってもたやすくはない理由の一つです。

分離したくてもできなくなる・恨みや憎しみ

また、依存や支配欲のためではなく、恨みや憎しみのために「分離したくても、中々できない」ことも、生きている限りやはり起こります。

人間の心には返報性の原理があるので、相手を恨みに思うのは、その人の心が正常に機能している証拠です。

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理不尽なことをされれば恨みや憎しみは感じて当然ですし、「こんなに恨んでいるんだ」と自己共感するのは、自分への思いやりの第一歩です。ただ一方で、仮に時間がかかったとしても、自分が分離していかないと、やはりその恨みや憎しみの感情に自分が縛られてしまいます。

分離できている状態とは

ではそもそも、「分離できている状態」とはどのようなことを指すのでしょうか・・・?以下に一つの例を挙げます。

私は聖心女学院の幼稚園に通っていたんですけれど、受け持ちはシスター・スタックという英国人でした。(略)

幼稚園の入り口と小学校に入り口は、二つ並んで別々なんです。アプローチの道も別ですけど、二つは一目で見られる。私たちは初めて一年生になって小学校の玄関へ向かって歩いていく時、どうしてもついこの間まで通っていた幼稚園の玄関を見ていたんです。するとシスター・スタックが縞の大きなエプロンを着けて(私の記憶の中ではね)、幼稚園の玄関を箒で掃いていらっしゃるのが見える、私たちは、

「シスター!シスター!」

って叫んだんです。懐かしくなってね。でもシスターはちらとこちらを見ただけで、手も振らなければ、懐かしそうな顔もしない。その光景の意味が間もなく私にはわかったんです。シスターは自分に責任がある間だけ、一生懸命子供たちを見た。しかし卒業すれば、それでもういいんです。自分の教えた子だから気になる、というのは、自分の功績を追いかける気持ちと関係があるんです。

それが契約というものなんだ。神との契約です。最初から期限つきです。この世全体が期限つきですからね。だからすべてのことが、別れというか辞去というか、関係を解消することを前提としている。

(曽野綾子「日本財団9年半の日々」より)

親子でも配偶者でも恋人でも友人でも、「関係を解消することを前提とした期限つき」のものです。人は必ず死ぬのですから、どんな相手ともいずれ別れの時がやってきます。この覚悟の有無が、「もう二度とないこの出会いに命を懸ける」ことを可能にするでしょう。

依存や支配は、相手を自分の所有物とみなしている、ということでもあります。所有物とみなすとは、「この関係が期限つきのものだ」とは思っていない、どうかすると自分が棺桶に入るまで、あるいはその後も、「相手は自分のものだ、だから自分の思い通りにしていいのだ」と思い込んでいる状態です。

分離は単なる行為ではなく、その人の生き方・あり方全ての現れです。この誰にとっても決してたやすくはない、分離のためのいくつかのヒントを以下に挙げます。

分離のヒント① 選ぶのは常にその人/自分の選択を他人のせいにしない

まず殊に心のあり方については、選ぶのは常にその人であること、これが知識レベルではなく自分の生き方になっているかが問われます。

これを裏から言えば、自分の選択を他人のせいにしない、ということです。

「だって世間ではそうだから。みんながこう言うから。誰それが○○するから。○○と言うから」これをやっている間は、分離のしようがありません。自分の選択を、自分以外の者に委ねてしまっているからです。

そして人を操作したくてたまらない人に、「私の言うとおりにしておけばいいのよ」をさせてしまう隙を与えてしまいます。教祖と信者、取り巻きにしたい人となりたい人の関係は、こうやって出来上がります。

支配/依存の関係に持ち込まれないためにも、「私の責任でこれを選びます」とはっきり表明できる自分であること、その姿勢で日々を生きている人は、操作されづらいのです。

分離のヒント② 自分が自分を一番励まし、認め、共感すること/かまってちゃんにならない

分離できていない状態とは、かまってちゃん、もしくはその裏返しのかまわせてちゃんになっている状態です。人は何故かまってちゃんやかまわせてちゃんになってしまうのでしょうか・・・?

幼い子供は、親や周りの大人から、浴びるように愛情と承認をもらってこそ成長します。しかし「常に自分が望むときに望んだように、過不足なく愛情と承認をもらえた人」は恐らくこの世にはいないでしょう。皆多かれ少なかれ、不全感を抱いたまま大人になります。そして大人になっても、自分がこの不全感に向き合うのではなく、周囲の人に埋め合わせてもらおうとすると「かまってちゃん」になってしまいます。

愛や思いやりや承認は、得られなければ寂しい思いをするのが人情ですし、自分をないがしろにされれば傷つくのは当然のことです。しかしそれでもなお、思いやりは見返りを求めずただ行うものであって、自分から人に要求するものではありません(具体的なマナーやルールを守ってもらうように人に説明したり、迷惑行為をやめてもらうのはまた別です)。

「私を愛して!」「私を思いやれ!」「私に寄り添え!」「私に感謝しろ!」・・・幼い子供なら許されても、大人がやれば脅迫です。分離とは「思いやりがないなあ」とは思っても、他人に要求も期待もしない態度でもあるでしょう。

それができるためにこそ、一見遠回りなようでも、まずはどんな感情でも否定せず、自分が自分に共感すること。これは自分への思いやりを養い、他人との分離を可能にする習慣です。

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分離のヒント③ 命がけで責任を果たせばこそ、潔く身を引ける

責任を持つ、果たすとは、その対象を愛するということです。「無責任な愛」はありません。言語矛盾です。口ではどんなにいいことを言っていても、責任から逃れようとする人に愛はありません。

そして愛するとは片手間でできることではなく、命がけで、全身全霊で行うものです。

曽野さんの担任だったシスターは、決して冷たいのではありません。曽野さんたちを命がけで愛したからこそ、自分の役目が終わった時に潔く身を引けたのです。

そしてこのシスターは、自分を大切にしていたでしょう。大切な自分だからこそ、その自分の気力、体力、精神力、経験、技術、知性や教養、人間性の全てを投入できます。自分をいい加減に扱う人が、事であろうと人であろうと、全てを投入するのは矛盾があります。

上手くいかなかった時に、「次はどうする」を一つ一つ考える手間を惜しみ、「どうせ自分はダメだ」と自分をけなして粗末にする、そのこと自体が既に無責任なことなのです。大人であれば健康管理も仕事の内、それをしないことは無責任であるのと同じように。

愛するとは、「好きになる」感情のことではありません。命がけで責任を全うしようとする生き方のことです。生き方ですから、誰かにできて誰かにはできない類のものではありません。そしてまた「やろうとしなければ決してできない」ものでもあるでしょう。

自分を愛することと、分離できるかどうかはつながっています。

分離のヒント④ 自分の問題か/相手の問題かの見極め

感情移入しやすく、どちらかと言えば心配性、世話好き、正義感や義侠心が強い、こうした人は熱血漢の「いい人」でもありますが、時として「自分ではどうにもできず、またどうにかすることではない、つまり自分の問題ではないのに、どうにかしようとする。でもできない」になることがあります。

クールでドライな人の方が、あっさりと「それは私の問題ではないから」と分離しやすいかもしれません。

どんな性質も、それだけでオールマイティなものはありません。

感情移入しやすい性質を変えることには無理がありますし、役に立つ場面もたくさんあります。ただもし自分が「感情移入しやすい方」ならば、「これは自分の問題か、相手の問題か」を自分に問う習慣を身に着けると、分離しやすくなるでしょう。

相手の心のあり方に傷ついたり不愉快になったり、「それってどうなの!?」と感じるのは自然なことです。

しかしなお、その人の心のあり方の責任は、こちらにはない。相手の問題であって、自分の問題ではありません。これを腑に落としておくと「あーあ、残念なことやってるな」とは思っても、それ以上は踏み込みにくくなります。

分離のヒント⑤ 蒔いた種は自分しか刈り取れない

昔から言われている「蒔いた種は自分しか刈り取れない」を頭ではなく心でわかると、上記④の「自分の問題か/相手の問題かの見極め」を、更にやりやすくなるでしょう。

昨年(2018年)12月にNHK-BSで、向田邦子の「阿修羅のごとく」が放映されました。40年前のドラマですが、日本のホームドラマでこれを超えるものは多分もう出ないと思われます。

ドラマの表舞台に現れるのは、阿修羅四姉妹のそれぞれの悩み苦しみですが、真の主人公は、画面に現れることは格段に少なかった彼女たちの父親だと私は思います。

ドラマの冒頭、三女役のいしだあゆみが、結露した夜の窓ガラスに「父」という文字を何度も指でなぞりながら書き、そして口では、次女役の八千草薫に違う話を赤電話で話していました。

物語の最終盤、父親の8年間にわたる浮気相手の家の前で、50年連れ添った妻が倒れ、そのまま帰らぬ人となります。

浮気相手には去られ、四人の娘たちには浮気がばれ、父親は暗い縁側で、頭を抱えながら横たわってただうめくしかありませんでした。

向田邦子ならではの「何の救いもないラスト」でした。「蒔いた種は自分しか刈り取れない」この誰にもどうにもできない非情さが、向田邦子の真骨頂なのだと思います。

この記事を読まれている方の中には、信頼を(ミスではなく)意図的に裏切られたり、騙されたり、いじめにあったりしたことがある方もおられるでしょう。その心の傷はそう簡単に癒えるものではなく、恨みや憎しみを感じて当然です。

信頼を裏切る人、騙す人、いじめる人は、ただ一人だけを裏切ったり騙したりいじめたりするのではありません。無意識が何度でも繰り返しそれをします。その人が心から「こんなことをしていてはダメだ!」と思わない限り。

自分より賢い人を騙そうとはしませんし、強そうな人をいじめることもしません。良くも悪くも人を疑わない、気持ちの優しい、自分に決して反撃しない人を騙し、いじめることで「自分は相手より賢く強い(はずだ)」「誰かを下げれば、その分自分は上がる。そうやって初めて、自分を保てる」と思い込んでいます。本当はその人も、そんなことをしなくてもそのままのその人で十分なのに。

「誰かを下げれば、その分自分は上がる」何と言う寒々しい世界観でしょう。そして人は、自分の脳の中の世界観を否が応でも実現してしまいます。

蒔いた種はその人自身にしか刈り取れない、これは悪いことをすれば罰が当たるということだけではなく(「そうは思えない、悪いことをしていてものうのうと暮らしている」人もいるでしょう)、お金や社会的地位があっても無くても、その人の人間観・世界観を、誰でもなくその人の潜在意識が実現してしまう。「馬鹿野郎、目を覚ませ!」とどんなに言ってやりたくても、他人はそれをどうにもできないということだと思います。

分離とは、「相手を変えようとしない」態度でもあります。「こういう考え方もあるんじゃない?」という提案はしても、それを採用するかどうかはその人に委ねる態度です。

蒔いた種は自分しか刈り取れない、これが腑に落ちるにつれて、「変えようとしない、するまい!」というよりも、「自分が変えようとする必要はない」と自然に思えるようになるようです。

分離とは、自分がどんな人間観・世界観を持っているのかに責任を持ち、それを磨く努力をしながら、同時に自分には限界があることを受け入れていく態度でもあるでしょう。

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《レッスンの一例》

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Pradoの心理セラピー・セッションでお伝えしている内容を含んでいます。

どんな自分も否定せず、そのまま見て、耳を傾けることで「生きやすさ」は増していきます。
自分を大切にすることで、打たれ強く、柔軟で、ぶれない心を・・・!

 

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生きづらい貴方へ

自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。