自分にふさわしいと思えないと受け取れない
月一回通う美容院で、「家庭画報」という雑誌をいつも読んでいます。
「家庭画報」には、選りすぐりのカメラマンが撮った美しい風景や、ホテル、旅館、レストランの写真がたくさん載っていて、見ているだけでおすそ分けにあずかった気分になります。
ファッションのページには、いわゆる高級ブランドの洋服を、これもまた選りすぐりのモデルさんや女優さんが、美しく着こなした姿が載っています。
「家庭画報」に載っているお洋服は、一着数十万円もするものばかりです。ジュエリーに至っては、時には数千万円とか、億単位のものも。
数年来、毎月髪を切ってもらっている美容師さんと一緒に
「わあ!すごい!マンション買える~!」
「こんな服、私絶対着れない!着られちゃう!」
などとミーハーな会話を楽しんでいます。
良いものは良い、とその価値はわかります。
しかしもし万が一、「どうぞ、この服を差し上げます。思う存分着てください」と言われたとしても、自分がその服にふさわしいと思えないと、着ることができません。タンスの肥やしになってしまうでしょう。ジュエリーも同じです。
物だけでなく、事もそうです。
例えば、高級ホテルのメインダイニングでのディナーに、仮に無料で招待され、洋服も靴もバッグも、その場にふさわしい物を用意してもらったとしても、自分自身がその場にふさわしいと思えなければ、入っていけません。
このことは、人間関係や、仕事や学業でも同じです。どんなにすばらしい人と出会っても、どんなに大きなビッグチャンスがやってきても、自分がそれにふさわしいと思えなければ、受け取れません。チャンスを自分から台無しにしてしまったり、「他人を利用する人」「他人を粗末に扱う人」と付き合ってしまうのは、心の奥底で「自分にはその程度の価値しかない」と思っているからなのです。
結果=能力×行動量×自尊感情
当Pradoの心理セラピーでは、初回セッションの前に「セッション終了後にどんな自分になっていたいかを、1~3つ考えて持ってきてください」とお願いしています。
単に「~ができる」ではなく、「~な私」にしているのにも意味があります。
どんなに能力が高まっても、「それを受け取るのにふさわしい自分」だと思えない限り、受け取れません。つまり最終的には、自分自身のあり方が結果を決めるからです。
望む結果を得るには、能力×行動量、だけではなく、更に自尊感情のあり方が掛け合わされます。式にすると以下のようになります。
結果=能力×行動量×自尊感情(自己評価、自己価値感、セルフイメージ、あり方などと置き換えても構いません)
能力には二種類ある、そして能力には限界が
能力には二種類あって、「やろうとすれば誰でもできる、しかしやらなければできない」ものと、「誰でもができることではない」ものがあります。自尊感情を高める習慣は、前者の能力です。
芸術作品を生み出すとか、オリンピックのメダリストになるとか、大きな会社を経営するとかは、後者の能力です。これらは、全員が全員できる必要はありません。
そしてまた、後者の能力は、前者の能力の上に成り立っています。「やろうとすれば誰でもできる、しかしやらなければできない」ことをやらない人に、「誰でもができることではない」能力は開花しません。
それでもなお、人間の能力には、限界があります。その人個人がどんなに才能があり努力をしても、時代的環境的な制約を受けることもあります。
そして能力は、0以上のプラスしかありません。行動量も同じです。
しかし、「それを受け取るのにふさわしい自分か」、つまり自己認識・自分で自分をどう捉えているか・自尊感情のあり方は、マイナスからプラスまであります。そして、これには限界はありません。
ということは、マイナスの自尊感情が掛け合わされると、一気にマイナスが膨らんでしまいます。
例えば、オウム真理教の幹部たちは、最高学府を出ていたエリートばかりでしたが、この自尊感情は大きなマイナスだったでしょう。ですから、悪魔に自分を売り渡し、地下鉄サリン事件という恐ろしいテロを引き起こしました。
このような例は、枚挙にいとまがありません。ブラック企業、パワハラ、モラハラなども同じです。そして厄介なことに、自尊感情がマイナスになっている自覚はほぼありません。
「頼むから、何もしないでじっとしていてくれ」と思うのは、なまじ能力×行動量の積が大きく、それに自尊感情のマイナスが掛け合わされる時です。
自分を大切にするのは根気がいる、習慣にならない限り
自尊感情を高める、即ち自分を大切にすることは、当たり前のことのようで、実は誰もがやっていることではありません。
自分を大切にするのは、「どんな『都合の悪い』自分にも向き合う」勇気と、その自分を投げ出さない根気が要ります。
そして困ったことが起きた時、ただ不平不満に埋没するのではなく、そのたびことに「このことから自分は何を学ぶのか」「ここから自分はどこへ行きたいのか」を考える習慣も合わせて必要です。
これらは習慣化されるまでは、実は「面倒くさい」のです。
だからこそ、自分にとって都合の良い状況が、天から降ってくるのを口を開けて待っている方がーどんなに不平不満を言っていてもー楽で、人はそれをやってしまいます。それで一生が終わってしまう人も少なくありません。
或いは、相手を操作し、振り回し支配して「自分が優位に立った気分」を味わう方がずっと楽なのです。これは相手が求めていないのに、余計なお節介を焼きたがるのも同じです。
しかしこれらは、仮に一時しのぎになっても、自分と他人を真に幸福にするものではありません。
これを体の健康と置き換えるとよくわかると思います。体を大事にするのと、心を大事にするのはよく似ています。
体を大事にするには、規則正しい生活や、バランスのとれた食事、適度な運動等、誰もが知っていて、わかっている当たり前のことを、長年にわたってやり続ける習慣が必要です。
これが習慣になってしまえば「やらない方が気持ち悪い」になります。しかし、どんなことも習慣になるまでは、「三日坊主を何度も繰り返す」粘り強いエネルギーとプロセスが要ります。
好きなものを好きなだけ、好きな時間に飲み食いし、ひたすら体は動かさず、好きな時に寝て好きな時に起きる方が、何の努力もいりません。
しかしこれでは、長期にわたって健康を維持することはできません。こうした生活を送りながら、薬だけ飲んでいても、健康にはなりません。
心のことも、全く同じです。
自分を否定しない、人と比較しない、特にお子さんに対して
冒頭に書いた「それを受け取るのにふさわしい自分」とは、「ほれぼれとする自分」のことではありません。「ほれぼれとする自分」は条件付きの自分であり、状況の変化に左右されてしまいます。
状況がどう変わろうと、人間ですからその時動揺することはあっても、「自分は自分」「何があっても、自分の存在はかけがえがない」を立て直せる自分のことです。
子育て中の親御さんに特にお願いしたいことは、親御さん自身がまず、自分を否定せず、人と比較しないことです。
お子さんが親御さんから、行動ではなく(人間は社会的動物であり、行動が制限されることがある、それを学ぶのは当然です)、自分の存在、自分の心を否定され、人と比較され続けたとして、この世が楽しい、素晴らしいものだと思えるでしょうか・・・?
子供たちは、大人と同じような客観的な思考や判断はできません。様々な角度から考える能力は、かなり遅くなってから開花します。大人であってもやろうとしなければ、この思考の柔軟性はすぐに失ってしまいます。
幼いうちは尚更、親御さんの物の考え方を、そのまま世界の掟のように潜在意識に刷り込んでしまいます。
どんなに塾やお稽古ごとに通わせようと、「自分はそれを受け取るのにふさわしい」と思えなければ、差し出されたチャンスを自分から台無しにしてしまいます。
逆から言えば「自分はそれを受け取るのにふさわしい」と思えていれば、周りがやいやい言わなくても、自分から能力を高めたい、もっと広く高い世界に触れたい、広く高い世界こそ、自分にふさわしいと自然に思うようになるものなのです。