自分を責めがちな「いい子」からの脱却・客観視と主体性へ

承認されやすい親にとっての「聞き分けのいい『いい子』」

親御さんにとって、聞き分けのいい「いい子」の方が手がかからず、「いい子」でいると承認する、ということがあるでしょう。

子供は親からの愛情とともに、承認をほしがります。

人間は他の野生動物と比べ、かなり長い間、親の庇護がなくては生きていけません。

子供たちは自分では意識していなくても、漠然とした不安を抱えながら生きています。「どうしたらこの家においてもらえるだろう?かけがえのない存在だと思ってもらえるだろう・・・?」

「この家にいていいんだよ」「お父さんとお母さんの、かけがえのない存在だよ」と浴びるように伝えてほしいのです。

そして「『いい子』でいれば、承認してもらえる。この家においてもらえる」と学習した子供は、「いい子」であり続けることを自らに課します。

そしてまた、この「いい子でいること」と、誰もが持っているナルシシズム「ほれぼれとする自分でなければ愛せない」が潜在意識の中で結びついてしまいます。

「ほれぼれとする、非の打ちどころのない『いい子』であること」が、至上命題のようになってしまう、真面目な子供ほどそうなりがちです。

もしかすると、「向上心がある」と評価され、ますます「非の打ちどころのない『いい子』でなくては!」と拍車がかかってしまうかもしれません。親御さん自身がそうであるなら、なおさらです。

このパターンが、幼少期のみならず、青少年期、成人後も続いてしまっているケースは、決して少なくありません。そのことが、結果的に「生きづらさ」を引き起こしてしまうことが、大変多いです。悪いことをしているわけではないのに、何故か苦しくなってしまう、そしてまたその自分を責めるという悪循環に陥ってしまいます。

他責よりも自責の方が「いい人」のように思われる?

真面目で気持ちの優しい「いい子」「いい人」ほど、自分を責めてしまう傾向があります。たとえ理不尽なことをされた場合であっても。「私が悪かったのかな・・・?」と。

人は理不尽なことを言われたりされたりすると、「反応的」になる場合、自責か他責かのいずれかをしてしまいます。

他責は他人を責めること「何でそんなことするの!信じられない!」「そんなことをする相手が悪い」、自責は「え!?私が変なことしたのかな?」と自分を責めることです。

「『いい人』でいなければ」が強いと、他責ではなく自責を選んでしまいます。
他責よりも自責の方が、一般に「周囲の手がかからない」からです。周囲に面倒を起こさないからです。

また、「自分は『いい人』であるはずだ、そうあるべきだ」が、「私は『いい人』に囲まれている。『いい人』の周りには『いい人』しか集まってこないはずだから」になったり、「人を疑ったり、悪く思うことはいけないこと」になることがあります。
これが転じて自責「あの人が悪いはずはない、だから悪いのは私なんだ」になってしまいます。

他責=わがまま、自責=いい人、の意味づけをしていないかどうかです。

しかし自責であろうと、他責であろうと、実は反応に過ぎず、「今現実に何が起こっているのか」を知ろうとする客観視の姿勢ではありません。現実をそのまま見て、「今後の全体にとって、何が一番良いのか」を考える姿勢ではありません。いずれにせよ犯人探しに終始しています。

自責か他責か、或いは、自責が良くて、他責が悪い、という二項対立から抜け出さない限り、建設的な人間関係は築けません。

「自分を責める」はナルシシズムであり、反応

自分を責めることと、反省はまったく似て非なることです。

自分を責めるとは「こんなはずじゃなかった!もっと上手くやれたはずなのに」というナルシシズム、思い上りが実は潜んでいます。自分の過大評価が背景にあり、その過大評価と現状の差を受け入れられないから自分を責めています。

「自分と他人双方にとって『良いこと』をしたい」ではなく、「自分は『良い人間だ(良い母親だ/良い父親だ/良い上司だ等)』と思っておきたい。思われたい」のナルシシズムが動機になっていないかです。

反省は「次はどうしたらいいのだろう?」と改善点を探すことです。現実は現実として受け止め、次により良い選択をするための、建設的な姿勢があります。上手くいかなかった自分もまた自分だ、という自己受容と謙虚さが背景にあります。

しかしまた、改善点を探し、受け取り方なり行動なりを変える方が、エネルギーが要ります。実は反省は、誰もがたやすくはやれません。一見矛盾していますが、「私がダメだから」と自分を責めて終わりにする方が楽なのです。テストのやり直しをするのが反省、「私がバカだから」ということにして、テストを放り出すのがただ自分を責めることです。

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サイコパス、自己愛性人格障害、境界性人格障害のターゲットにされやすい「いい子」

ところで、自分を責めやすく、聞き分けのよい「いい子」をターゲットにするのが、サイコパス、自己愛性人格障害、境界性人格障害の人たちです。

聞き分けが良い、というのは、「人の話をそのままうのみにして、疑わない」にもなりやすいです。信じるより疑う方がエネルギーがいり、ストレスがかかります。人は思考停止して信じる方が、ずっと楽なのです。

サイコパス、自己愛性人格障害、境界性人格障害の人たちは、大変魅力的であり、特にサイコパスは「何を言ったりしたりすれば、相手が落ちるか」を知り抜いています。「自分は悪くない、『自分は良い人だ』と思っておきたい」「評価評判、賞賛を得られると嬉しくなる」「共感してもらえると仲間を得たような気分になり、孤独感が癒される」等、どんな「エサ」をぶら下げれば、相手が食いついてくるかを四六時中考え抜いていればこそ、サイコパスが人たらしであるゆえんです。

そして人は一旦好意を持ち、信頼した相手を疑うことにストレスを感じます。何とも思っていない相手なら「これはおかしい」と気づくことでも、信頼した相手だと「あの人のことだから、きっと何か事情があるにちがいない」と自分から見て見ぬふりや、歪曲をしてしまいます。

サイコパスと人格障害では、抱えている感情の違い(サイコパスは不安を感じにくく、人格障害は不安からしがみつく)がありますが、いずれにせよ「人をサンドバッグにしたい」「人が弱っていくのを見るのが元気の素」が彼らがターゲットを探す理由です。

だからこそ、ターゲットに疑われないために、当初は「いい人」の仮面をかぶっています。「いい人」の仮面に一生騙されっぱなし、ということもあります。

食って掛かることや、無視して取り合わないなど決してしない「いい子」ほど、ターゲットにされやすいのです。

インターネットが普及する以前は、人が直接交流できる人数が限られていました。運が良ければ、これらの人に出くわさずに一生を終えることもできたでしょう。

SNS、出会い系サイトなどは、サイコパス、自己愛性人格障害、境界性人格障害の人たちがターゲットを探す草刈り場ともなっています。インターネットが普及する以前と比べて「出会ってしまう」可能性は高くなっています。

また雇用が流動的になっていることも、「多くの人に出会う」一因になっているでしょう。

自責か他責かではなく、メタ認知・客観視の習慣

では自責をやめて他責をすればいいのか、ということではありません。上記のとおり、自責も他責も、「現実をそのまま見ていない」「建設的な改善方法を考えない」という意味では同じです。

また下手に相手を責めると逆切れされたり、心理ゲームを仕掛けてきたり、ということも起こります。

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自責も他責も反応です。反応的にならないために、メタ認知、即ち「今実際に何が起こっているのか」を良い・悪いのジャッジ抜きに客観視する力が必要です。
利害関係もしがらみもない第三者のように、あたかも通りすがりの人のように、起こっていることを眺められる力です。

しがらみのない第三者の方が、客観的に事態を把握できることも多いです。
だからこそ私たちは、何かもめごとが起こった時に、わざわざ仲介してくれる人を頼んだりもします。

毎回仲介者を頼むわけには行かないので、自分で客観視する力をつける、これが自責や他責に陥らないための第一歩です。

客観視した後「自分は何が欲しいか、どうしたいか」の主体性

仲介者は「今こういうことが起きていますね」と整理はしてくれますが、「では、こうして下さい」は言いません。どうしていくのかは当事者が決めることです。

現実に何が起こっているのか把握した後、「自分に都合良くお膳立てされること」を口をあけて待っているわけにはいきません。

「自分にとって何が大事か」
「自分が欲しいものは何か、どうしたいのか」
「そして、今自分にできる最善の選択は何か」

これらは全て自分が決めることです。ターゲットにされかかっても、最終的に巻き込まれずにすむ人、やはり傷ついたとしても、かすり傷程度にとどめておける人は、これらの質問を自分にしています。
つまり、主体的に生きる習慣です。当たり前のようで、意識的に習慣化しないと「どうせ」「だって」の自責や他責になります。

「いい子」の気持ちの優しさに、客観視と主体性を

「いい子」で育ってきた人は、気持ちが優しく、辛そうな人に手を差し伸べたくなる傾向が強いです。
このこと自体をやめなければならないわけでは決してありません。気持ちの優しさに、付け込む方がやはり悪いのです。

それでもなお、「低い自己価値感・自己有用感(自分には価値があり、役に立っているという実感)」を埋め合わせるために、人に尽くそうとしていないかを振り返ることもまた重要です。
これは相手のためのようで、実は自己満足に過ぎません。

誰かのお役に立てれば嬉しく、誰からも必要とされないのは心を苛みます。しかしそれでもなお、真の愛、思いやりとは、相手が気づかなくても、憎まれ役を買っても「相手にとって真に大事なこと」をやることです。「あえて手を出さない」忍耐も同じです。

思いやりは想像力であり、客観視と同じく、脳の前頭連合野が担います。

気持ちの優しさに加えて、

「物事をあるがままに見る客観視」と
「人がどう評価するかではなく、自分の責任において選択する主体性」が

生きやすさを増していくでしょう。

反応は起きて当然ですが、その反応が暴走すると自責や他責で終わってしまいます。自分の反応を否定せず、そのまま認める、反応「的」にならずに自分で自分の手綱を握る習慣が、メタ認知能力です。

どうしても辛い時は、無理をせず信頼できる人に共感してもらい、反応を鎮めていくのも責任ある大人の態度です。

反応的になることから客観視と主体性へ、その割合を高めていく努力は、誰もがやろうとすればできることなのです。

【音声版・自尊感情を高める習慣・6回コース】

1回約20分、6回コースの音声教材です。

第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

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🔗第1回・要約・氣づきメモ

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。