「感謝の大切さ」は行為ではなく、境地
どんな分野であれ、第一線で活躍している人たちが必ず口にするのは「感謝の大切さ」です。
これは感謝という行為ではなく、境地のことでしょう。
自分に都合の良いことには感謝して、都合の悪いことには感謝しない、これは感謝という行為ではあっても、境地ではありません。
境地とは、自分の外側で起きることに、いちいち振り回されることではありません。
しかし誰だって、足を踏まれれば痛いし、裏切られれば辛いし、大切な存在を失えば悲しいものです。
感謝の境地に至っている人も、普通の生身の人間ですから、足を踏まれたら痛いです。「感謝が大事ですよ」とは、理不尽なことをされてもニコニコしていろ、ということでは決してありません。
では、単に自分にとってうれしいこと、都合の良いことに「ありがとう」と言うことと、辛い出来事にその時は心を痛めても、感謝の心を失わない境地とは、何が、どのように違うのでしょう?
感謝の境地に至るために、どのようなことが必要なのか、掘り下げて考えてみたいと思います。
「あなたはそのことをどう感じましたか?そしてそう感じたことを、どう感じましたか?」(バージニア・サティア)
バージニア・サティアは家族療法の第一人者であり、20世紀を代表する心理療法家の一人です。
サティアが最も大切にした質問が、この「あなたはそのことをどう感じましたか?そしてそう感じたことを、どう感じましたか?」です。
そして心にとってより重要なのは、二つ目の「そう感じたことを、どう感じたか」です。
人がしばしば陥るのは「こんなことで腹を立てた自分が情けない」「こんなに傷ついた思いは取り除きたい、災難だ」と、ネガティブな感情そのものを責めたり、排除しようとしたりすることです。
ネガティブな感情そのものは、自分の反応であって、「そう感じたのは自分」です。
「そう感じた自分」を排除しようとすることは、実は自己虐待になります。
サティアが重視したのは、どんな感情であっても、ジャッジせずに「興味を持つ」姿勢でした。
あたかも、愛情深い母親であれば、泣いている子供に、事情を聴きもせずいきなり「泣かないの!」と感情を抑えつけようとしたりせず、「どうしたの?何が嫌だったの?」とそのまま受け止めようとする態度です。
この「ジャッジをせずに興味を持つ」態度こそ、相手をそのまま尊重し、同じ目の高さに立って信頼する態度です。このことに、人は知らず知らずのうちに勇気づけられます。
そのことと、もしかすると子供が自分のわがままが通らなかったので泣いている、その態度を後で戒めるのは別です。
この愛情深い母親の態度を、自分自身に対してやっているか、ということです。
足を踏まれたことに感謝するのではなく、足を踏まれた痛みを大切に扱う
何があっても感謝の心を失わない人は、足を踏まれたことに感謝するのではなく(これはどう考えても「歪んだ」態度です)、足を踏まれた痛みを大切に扱っています。
不安や、悔しさや、憎しみでさえも大切に扱い、そしてそこから生きた学びを得ています。少なくとも得ようとし、無駄にはしていません。これらの不快な感情を排除しようとする、取り除こうとすると「自分は被害者。起きた出来事はあってはならない無駄なこと」という暗示を、自分の潜在意識に自分で入れてしまいます。これでは感謝のある人、その境地にはなれません。
痛みを大切に扱うとは、そこから生きた学びを得られる自分を知っている、ということでもあります。また、傷つきを抱えながら生きる、その力を養うことです。傷つきもまた、自分の人生にとって不可欠な要素です。
この矜持があればこそ、表面上は感情が波立つことがあっても、心の底では感謝の心を失わずにいられるのでしょう。