願望実現のための最大の障害・執着
悩みから抜け出すためには、辛い感情を否定せずに受け止めるとともに、「次に似たようなことが起きた時、どのように違った反応と選択をするのか?」を考える必要があります。
そうでないと、自罰か(「私がダメだ」)他罰か(「あいつが悪い。あの人のせいだ」)の堂々巡りにはまり込み、否が応でも自尊感情は低下します。自尊感情を支えるものの一つに、問題解決能力があります。自罰も他罰も、要は犯人探しです。問題解決にはつながりません。もっともらしい「正しい/正しくない」のレッテル貼りをし、思考停止に陥ります。思考停止は脳にとって楽なので、自覚なくそこに逃げてしまいます。辛い感情を否定せずに受け止めるのは、単なるお慰めのためではなく、思考停止せずに問題解決をするための、下準備と言えます。
「どのように違った反応と選択ができる自分でいたいか?」これを当Pradoでは目標設定といいます。
「自信を持って堂々としていたい」「ぶれない自分でいたい」「夫や子供に優しく接したい」・・・どれも大切なことです。
目標や願望は、実現したいからこそ持つもの。それを実現させるために努力もします。
そして中々実現しない時、人は「まだまだ努力が足りないんじゃないか」と思いがちですが、最大の障害は、努力の不足よりも執着であることの方が多いようです。
人の行動の二つの動機・愛か恐れ。そして執着は愛ではなく恐れ
人の行動の動機には二つしかない、それは愛か恐れかだ、と言われます。
そして執着は恐れです。「もし、実現できなかったらどうしよう」「これが実現できなかったら困る・・・!」しがみついている状態であり、これを愛とは言いません。
マラソンのラストスパートとか、津波から走って逃げるなど、極々短い時間であれば、「何が何でも・・・!」の執着心が効果を発揮する時もあります。
しかし、長期的なことだと、「もし、実現できなかったらどうしよう」の恐れが生じます。そしてこれは、「実現できない」というフレームで物事を見ているので、「実現できない」方向へ突き進んでしまいます。そしてその恐れは「世界を信じていない」「自分を信じていない」の暗示にもなります。
自分や世界を信じている時、人は過剰な恐れは抱きません。電車が時間通りに目的地に着く、と信じきっている時に「もし、遅れたらどうしよう」とは考えません。
そして世界を信じていないのに、その世界の中で、自分の目標・願望が実現するのは矛盾があります。
執着を手放しましょう、とは、「世界を信じている」と心底思える状態になることと同義です。
過去の執着を手放すと、未来への執着も減る
ところで、潜在意識は過去・現在・未来の区別をつけません。
ですので、過去の執着を手放すと「執着を手放せた」=「未来の執着も手放せた」という暗示を入れることができます。
未来に対して過度な不安を抱きがちな人は、過去の執着も手放し切れていないことが多いです。過去に執着していればこそ、未来にも執着する(「またもしあんなことが起こったらどうしよう」)、と言ってもよいでしょう。
「この程度ですんで良かった」の8つのステップ
過去の執着を手放すとは、「望んだ通りにはならなかった。その時は悔しい思いをしたけれど、まあ、この程度ですんで良かったなあ」と自然に思えることです。
松下幸之助が、社員を採用する時に「君は運がいいかね?」と必ず尋ね、「運がいいです」と答えた若者だけを採用した、という逸話があります。これはただのラッキーボーイ、ラッキーガールという意味ではありません。望まない出来事にも「この程度ですんで良かった」と前向きに、そして謙虚に受け止められる姿勢があるかを見ていたのだそうです。
「この程度ですんで良かった」は、過去と現在の状況を認め、肯定しています。つまり、「自分の望み通りにはならなかったけれど、そのままの世界を肯定している」になり、「世界を信じている」になります。
世界を信じているということは、未来の世界も信じているということなので、過度な不安、そして執着は持てなくなります。
そしてこのことは、段階を追う必要があります。
1.先に「この程度ですんで良かった」と無理に言い聞かせようとしない
最も大切なことは、まだ感情が傷ついている時に、無理やり「この程度ですんで良かったじゃない!」と自分や他人にお説教しないことです。
そうすると、傷ついた感情のもって行き場がなくなり、不適切な行動化(八つ当たり、自分を責めるなど)や身体化(やる気が起きない、ぐったりするなど)になりかねません。
自然に「この程度ですんで良かった」と湧き上がってくるための、プロセスを踏むことが重要です。
2.悲しみ、悔しさ、怒りを受け止め、「何が欲しくて悲しんでいるのだろう?」
人が何かに傷つき、悲しみ、怒る時は、「自分が本当に欲しかったものを得られなかった時」です。どうでもいいことには、私たちはそれほど感情を揺さぶられません。
「私は一体何が欲しかったのだろう?相手にどうして欲しかったのだろう?私はどうしたかったのだろう?」と静かに考えることそのものが、客観視になります。自分の本音を探る段階です。
例えば、信頼、友情、愛などを、傷つけられたために辛い思いをする、これは人間であれば当然のことです。
「私は『信頼』を裏切られて、悲しんでいるんだなあ。『信頼』が欲しかったんだなあ」と欲しかったものに気づけると、悩みの渦を外側から眺められています。
3.その「欲しかったもの」は、今後もそのこと、その人からしか得られないことか?
そして例えばその「信頼」は、今後もそのことや、その人からしか得られないことでしょうか・・・?
現実にはそうではないでしょう。未来にはあらゆる可能性があります。
しかし、その可能性を信じられないと、「あの人は私に『信頼』をくれるはずだったのに!」と自分からしがみついてしまいます。これが過去への執着の中身になっています。
4.その出来事を経て、以前よりも自分が賢くなっている点を探す
どんな出来事も、人は学びに変えることができます。「渦中にいた時は辛かったけれど、あの経験がなければ、今の自分は生きた学びを得られなかった」ことは、どんな人にも無数にあります。
ただ、普段は余り意識していないだけです。
その出来事を経て、それ以前よりも、確実に自分が賢くなっていることは、どんなことがあるでしょうか?
この問いは、一回では終わらず、時間をかけて繰り返すことも大切です。そして、辛い出来事の中から学びを得られた、と実感できるたびに、その自分をねぎらい、認め、励ましています。
そしてまた、人には「その年齢にならないとわからない」こともたくさんあります。
今はまだわからないけれど、もっと時間がたつと「ああ、あれはああいうことだったのか」とわかるかもしれない、その未来の自分をイメージすることも、助けになります。
5.今後似たようなことが起きても、同じ結果にはならないことを確認
そしてこの点も非常に重要です。恐れは「また、あんなことが起きたらどうしよう・・・!」と思ってしまう限り、湧き上がってしまうからです。
「相手に『何でこうしないの!』『こんなことをするの!』ではなく、『自分はこう思った、こう感じた』を素直に伝えてみる」
「人を支配したがる人には、あまり深入りせず、サッと距離をあける」
「『この人についていけば安心!』と自分からすがらない。どんな人にも限界や欠点はある」など
対応策を自分が身に着けている、と実感できることが必要です。
知識ではなく気づきによって、変わる生き方セラピー・セッションで主にやっていることは、クライアント様の経験から気づきを得ていくことです。気づきは知識とは異なります。弊社のクライアント様は、勉強熱心な方が多く、読書好きだったり、また[…]
6.今は無事に暮らせていることを確認
困難、トラブルの渦中にいる間は「この程度ですんで良かった」とは思えません。
今は全てが終わって、無事に過ごせているんだなあ、と実感できて初めて、安心して振り返ることができます。
7.傷ついたけれど、無事に乗り越えさせてくれた自分に感謝
そして、こうやって無事に乗り越えた最大の功労者は自分です。
もしかすると、他の人の助けを借りたかもしれませんが、他人が自分に成り代わって、困難を乗り越えることはできません。他人が自分に成り代わって、傷を癒すことも、学びを得ることもできないのです。
「無我夢中だったし、どんくさいこともいっぱいあったけれど、何とか無事に乗り越えたなあ」
その自分に「ありがとう、ともあれ、お疲れ様・・・!」と感謝とねぎらいの言葉をかけてあげると、大きな癒しになります。
8.「この程度ですんで良かった」は最終的に湧き上がってくるもの
これらのプロセスを踏んで、最終的に「ああ、この程度ですんで本当に良かった」と湧き上がってくる、そうなるとそれは、潜在意識レベルで「世界を肯定した」ことになります。
勿論すべての出来事を「あの程度ですんで良かった」とは思えないこともあるでしょう。親から受けた肉体的・精神的虐待などは最たる例です。
弊社の心理セラピーでは、やはり大きな事柄を扱うことが多いので、大きなステップの中に小さな無数のステップがあるものです。そしてまた、人間の心は揺れ動くもの。癒されたと一旦思えても、また行きつ戻りつがあるものです。これにがっかりする必要は全くなく、「まだまだ学びや気づきがその中に入っている、待っている」というサインなのです。
できる限り、「過去の嫌な出来事への執着を手放す」ことは、嫌な思いをさせた相手ではなく、自分自身を癒し、未来に希望を持つ原動力となります。
ですから、ご自分で取り組む場合は、どんな人生にも起こりがちな、小さな、でも癒し切れてはいない嫌だった出来事から始めることをお勧めします。「一か月後には忘れているだろうけれど、今はもやもやする」ようなことがお勧めです。
小さな、でも嫌な出来事は、もしかすると私たちを鍛える「小さな練習問題」としてやってくるのかもしれません。