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ただひたぶるに生きし君「遺言 斃(たお)れてのち元(はじ)まる」鶴見和子

私のセラピーセッションの際、クライアントさんから「自分の人生の使命を知りたい」といった質問が出たときに、「自分のお葬式をイメージする」というワークをすることがあります。

軽く催眠誘導を行った後、自分のお葬式の時の、献花や、弔辞、最後の出棺の際に、愛する人たちからどのような言葉をかけてほしいかイメージしてもらうと、きっと心の深いところに触れるのであろう、涙を流される方も少なくありません。

さて、セラピストの最大のクライアントは、自分自身です。

私が直接知っている人でさえ、今の私の年齢より若くして亡くなった人は8人にのぼります。10代が1人、20代が3人、30代が3人、40代が1人です。

一応平均寿命まで生きると仮定して生活設計は立てるものの、自分がその年齢まで生きると信じてしまうのはやはり甘いでしょう。
亡くなった彼らは、今私がいる地点まで、人生を見ることが許されなかったのです。
ましてや私は、1995年の阪神・淡路大震災の時に死んでいても全くおかしくはなかったのですから・・・。

そんなことを考えているとやはり引き寄せるのでしょうか、ある日新聞のTV欄にふと目がとまり、NHK教育TVの「こころの時代 ただひたぶるに生きし君 姉・鶴見和子との日々」を見ることができました。

社会学者・鶴見和子が1995年のクリスマスイブに脳出血に倒れ、左半身まひ、車いすの生活となり、弟の哲学者・鶴見俊輔を頼って京都・ゆうゆうの里で暮らすも2006年に亡くなったことは知っていました。

鶴見和子の妹・内山章子(あやこ)さんが最期を看取り、その日々の様子のインタビューと、鶴見和子の生前、車いす生活の時のインタビューを織り交ぜた番組でした。

2006年の5月31日に背骨の圧迫骨折をし、寝たきりの生活に入り、その後6月25日に大腸がんが見つかり、すでに手術は不可能な状態であったことなどを初めて知りました。

この最期の日々、この知の巨人がどのように病による激痛と死に立ち向かっていたのでしょうか。

章子さんの日記には、激痛に大声を上げてまさに七転八倒する様と、なおかつ最期まで失わなかった誇り高さが描かれてます。
死の6日前、7月25日の章子さんの日記にはこう記されています。

午後四時、「大量下血があった」と先生が言われた。「大腸癌が破れたのだとしたら、止血は難しい。今夜あたり・・・。」(略)
看護師さんは、なんとか点滴を入れる所はないかと懸命に探して下さるが、どこも入らない。
「死ぬ方がいい。もう止めて。もう限界に来ました。止めて下さい。馬鹿馬鹿しい。もう終わりです。」と叫ぶ。

(略)

午後七時、兄(鶴見俊輔)に、
「死ぬというのは面白い体験ね。こんなの初めてだワ。こんな経験をするとは思わなかった。人生って面白いことが一杯あるのね。こんなに長く生きてもまだ知らないことがあるなんて面白い!!驚いた!!」というと、兄は、
「人生は驚きだ!!」と答え、姉は、
「驚いた!!面白い!!」といって、二人でゲラゲラ笑う。

(最期の7月31日の日記)

(午後)八時五十分、「あーやーこーさーん」といっているらしい。姉の手を握って「章子いますよ。」というと「あーあー、ありがとう。」(略)まわりにいる一人一人にありがとうといった。私の手を握り、「Thank you very much!」という。
「しあわせでした。しあわせでした。しあわせでした。ありがとう。」(略)
そして午後十二時二十三分、息をひきとった。

章子さんは番組の中で「姉は一度も『すみません』とか『ごめんなさい』とは言いませんでした。いつも『ありがとう』でした」と話されていました。

人はこのようにも生き、死ぬことができるのです。

鶴見和子は死の10年前、左半身まひという重度障害を得、しかし全くひるむことなく、むしろその障害を自分の仕事の変容に役立てました。このバイタリティがあればこその死に方でしょう。

死の間際の全く私的な空間での会話が、何の縁もゆかりもない私を、時空を超えて教育し続けることになるとは鶴見和子自身想像もしていなかったに違いありません。

人に影響を与えうるのは、その人の生方様、存在感そのものだけなのです。
多くの講義、セミナー、著作、私の場合であればセッションは、単なる媒体にすぎません。

そしてその存在感は、一瞬一瞬、何を感じ取り、どのように選択と判断を下し、どのような心を込めた行動を積み重ねているかの膨大な集積によって作られます。付け焼刃は効きません。

死を思うことはやはり生を思うこと、日常の目にもとまらぬ程の細かな選択の、その意味を見出すことでした。

(引用の日記は鶴見和子「遺言 斃(たお)れてのち元(はじ)まる」藤原書店より)