連鎖は断ち切れる・親を許せない貴方へ

わかりづらく、生きづらさの温床になる精神的虐待

これは身体的精神的虐待(暴力、暴言)、過干渉による支配、子供の感情や自由意志を尊重しない、またそのことを正当化して反省することのない親の元で”窒息しそうになって”きた方のためのページです。

私の臨床の実感では、身体的暴力よりも、精神的な支配ー子供の感性、感情、自由意志を踏みにじり、頑張りを認めず、失敗をあざ笑う、或いは何でも先回りして与えようとし、それから子供が外れると猛烈に罪悪感に訴えようとする(「あなたのためを思ってやったのに!」)ケースが大変多いです。

そして精神的な支配の方が、非常に巧妙で周囲にはわかりづらく、後述しますが「罪悪感を刷り込まれる」こととセットになっているので子供自身が気づきにくいようです。

親は身体的暴力でさえ「しつけのつもりだった」と言い訳します。まして精神的暴力は、自分では愛情のつもりになっています。支配している自覚はまずありません。

「自由意志と感情を、親に素直に伝えられず、押し殺して生きてきた」いわゆる「いい子」で育ってきた子供たちが、成人後しばらくたって(30歳、40歳を超えてようやく)、「上手く人と関われない」「自分に自信が持てずに周囲に振り回されてしまう」などの「生きづらさ」に気づき始めます。

思春期に反抗期らしい反抗期がなかった人、中年になっても「親の顔色を窺ってしまう」「親の意見に逆らえない」「親の機嫌を損ねるのが怖い」人は要注意です。親との関係性においてだけではなく、「いい人と思われたい」「周囲の『都合の良い人』になっている」場合も同じです。

これは時だけが自然に解決してくれるものではないようです。
やはり辛くても自分の心と向き合い、感情を癒し、無意識の中に埋め込まれたパターンー特に「罪悪感から○○する」ーを解除しなければ根本解決にはなりません。

親の支配的な言動、態度、あり方の責任を免除することは、愛ではなく

どの親も親である以上、子供が心身ともに健全に成長する環境を整える責任があります。
やむを得ず自分がそれを果たせない場合は、それが出来る人に子供を託さなくてはなりません。そして子供の成長に応じて、謝罪と説明責任を果たす必要があります。

またどんなに子供を愛していても、親も生身の人間である以上不完全な存在です。思わず声を荒げたり、手を挙げたり、誰も止めてくれる人がいないために「スイッチが入ってしまう」、この自分に苦しんでいる親も少なくありません。

しかし端から、良心の呵責や反省などなく、親の特権を振りかざして子供を意のままに支配しようとする親は、残念ながら存在します。普通の善意の人が、ついイライラして子供に当たってしまうのとは違い、「巧妙に子供をいたぶって快感を得る」親も少なからずいます。

家庭は密室です。

そして現代は昔と比べて、良くも悪くもプライバシーが保護されているので、周囲の人が気づきにくくなっています。
だからこそ親の暴走を止められない状況が起きやすいのです。

もしかすると誰かに「ちゃんと食べさせてくれて、学校に行かせてもらったんだから、それだけでも感謝しなくちゃ」と言われたり、また自分自身に言ったりしたことがあるかもしれません。

今日からはそうした言葉に耳を貸す必要はありません。
「生活の保障」を盾に、子供を支配する親は後を絶たないからです。

大人であれば、自分の人生に責任を負うのは自分しかいない、という大原則に立ち戻りましょう。
その人の言動、態度、あり方の責任は、その人のものです。
そして自分の人生に責任を持たずして、自分を大切にする自尊感情は育めません。

親が当然果たすべき責任を果たさなかった、この責任を免除する必要はありませんし、責任の免除は愛ではありません。子供が犯罪を犯した時に、真に愛のある親なら子供をかくまったり逃がしたりはしません。共に警察に付き添って出頭させ、罪を償わせようとします。

親が、その責任と向き合おうとするのか、いつまでも逃げようとするのかは、親自身が選択するしかありません。子供としては、真摯に向き合い、できれば反省と謝罪がほしいでしょう。その心情は当然のものです。しかしどんなに遅まきながらでもそうするようなら、最初からこんなことにはなっていません。心の在り方についての、反省と謝罪は実は難しいのです。だからこそ、子供の方は、中々癒えにくい葛藤が生じます。

本来は不要の罪悪感・ただし良心の呵責と混同しやすく、厄介

幼い子供はたとえどんな親であっても、特にお母さんが大好きで、お母さんに幸せになってもらいたいと望んでいます。

健全な親は、子供の無垢な愛情に感動し、それを上回る愛情を注げます。たとえ時に堪忍袋の緒が切れることはあっても。

支配する親は、「子育てのストレスに追い詰められて」とは全く異なる動機で、子供を支配しようとします。

子供を自分とは異なる存在と認めることが出来ません。
自分の延長、所有物、与えられたおもちゃ、自分の体裁のためのアクセサリーとしかとらえていません。これが健全な親が時にはイライラが高じてしまうことと、根本的に異なる点です。

支配する親にとっては、子供が独自の自由意志を持つことや、「親が望むような反応を示さない」ことなど「あってはならない」のです。まるで自分が否定されたかのように捉えてしまうからです。

親自身が、特に幼少期に健全な自我を育てることに失敗し、自分と他人を分けて考えることができないとそうなりがちです。自我とは心の器ともたとえられます。自我が十分に発達せず、心の器が弱くもろいと、責任から逃げるようにもなります。結果心は未成熟なまま、体だけ大人になってしまいます。

こうした親の元で育てられた子供は、自尊心が著しく傷つきます。自尊心は困難を乗り越えていく核となるものですから、生きづらさを抱えてしまっても当然です。

ただ、こうした育てられ方に怒りを感じているということは、その人の自尊心が死んではいないという証拠でもあります。

また支配する親は、子供が当たり前に持つ「自立したい欲求」に罪悪感を持つように刷り込み、「自立=親を見捨てる」と刷り込んでいきます。
子供は自立したい欲求を打ち砕かれるたびに、怒りや悔しさを感じますが、それを感じることにさえ罪悪感を感じるようにしむけます。

それは言葉(「お母さんを見捨てるつもりなの!?」「あなたを心配して何が悪いの!?」)だけでなく、寂しそうな顔をしてみせるなど、態度で表すことも多いです。

罪悪感の厄介なところは、良心の呵責と区別がつきにくい点です。

良心の呵責は、良心に従った方が自分が幸せになり、単純にいい気持ちになれます。
罪悪感は「相手の望むとおりにしてもいい気持ちにはならない。が、望むとおりにしなければ、もっと嫌な思いをするからそうする」が見分けるポイントになるでしょう。良心は自分軸、罪悪感は他人軸です。

いつの間にか埋め込まれた罪悪感は、気づいたからと言ってすぐに解消出来る性質のものではありません。しかし、いずれにせよ、自尊感情豊かな生き方には必要のないものです。

以下に親から受けた心の傷を癒す、最大公約数的なプロセスを挙げていきます。

(実際のセラピー・セッションでは、一つのプロセスの中に無数のプロセスがあり、また行きつ戻りつがあります)

①まず安全、安心な居場所を確保

できれば物理的に離れるのが一番です。相手との距離を置く=冷たくする、愛がなくなる、ではありません。
距離を置いて初めてわかることもあります。どんな関係であっても一旦距離を置き、客観視することが必要な時が巡ってくることもあります。

傷が癒えないうちにまた傷をえぐられるような環境にいては、自分の心を客観視することができません。もし貴方がそのような環境にいるとするなら、引越しするのも選択肢の一つです。

引越したとしても親は電話やメールを再々送ってきたり、貴方の家に押しかけてくることもあります。
泣いて脅すこともあるかもしれませんが、罪悪感を刺激されないように注意が必要です。
その時も毅然とした態度を崩さないことが肝要です。

引っ越しが出来ない場合は、関わる機会を出来るだけ減らし、時間的・心理的な距離をあけてみましょう。

返事は短く、事実だけにペーシングして相手の言うことを肯定も否定もしないように対応してみましょう。
感情的になったり、議論に持ちこむと相手の思うつぼです。事実だけを伝えるのは、議論に持ち込まないためです。議論になると「勝った/負けた」の泥仕合になりかねません。

肉親なので難しいのは承知の上ですが、相手をクレーマーだと思って対応するとより効果的です。

②押さえこんできた感情を受け止め、OKを出す

身体的な安全が確保されると、感情を抑え込んできた重い蓋がようやく外れます。
するとご自分でも予想もしなかった感情が噴き出すかもしれません。

恨み、憎しみ、怒り、悔しさ・・・これらを「感じられるようになる」のが癒しへの最初の大きな一歩です。

親に支配され続けてきた子供は、これらを感じてしまうと「生きていけない」ため、ずっと感情を麻痺させたり、押さえこんできたりしています。

親に反抗できるのは、「反抗しても自分は死なない。この家から放り出されることはない」と思えているからです。健全な親は、子供の反抗を、その時は「親に向かって何てことを言うんだ!」と叱ったとしても、内心では深く喜べるものです。

感情を吐き出すことは大切ですが、やり方を間違うと感情に溺れたり、堂々めぐりになり却ってその感情に押しつぶされることがあります。他人に聞いてもらう時は、決して否定したり、説教したりしない人、できれば人間としての成熟度が高い人を選べるといいでしょう。

またふさわしい聞き手が見つからない場合は、まず自分自身に「この感情はOKだ」と言ってあげてもらえればと思います。

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②-補足:感情を全て吐き出してしまうのにも、時間がかかることも

長年繰り返し繰り返し、不当に支配されてきたことへの怒りは、一回二回ではなく繰り返し吐き出さなくてはならないでしょう。それがむしろ自然です。

心は「より安全なもの」から取り扱おうとするので、一つの怒りが癒されると、また別の怒りが浮き上がることがあります。
「また出てきた!」「まだあったわ!」とうんざりするかもしれませんが、ご自分に対して忍耐を失わず、そして感情に溺れずに客観視する習慣をつけることが癒しへの第二段階です。

③「本当はどうしてほしかったか?」を静かに考える

感情を一通り吐き出し、感情そのものにOKを出した後、「本当はどうしてほしかったか?」を静かに考える段階に入ります。

「本当はどうしてほしかったか」、これを考えるのはつらい作業になるかもしれません。だからこそ、このつらさに耐えられない時、人は目をそらし、自分をごまかそうとしてしまいます。これもまた、防衛の一種です。
それを得られなかった、そして今後も得られないであろう事実と、向き合わざるを得ないからです。
その事実を受け入れる時、痛みと、悲しみを感じることでしょう。

この心の傷を癒すプロセスは、どの段階も難しく感じて当然です。そして特にこの「どうしてほしかったかを考える」段階は、その最たるものかもしれません。援助を求めることに、罪悪感や恥ずかしさをを感じる必要は全くありません。

それは悲しむのにも勇気がいるからです。

この勇気を持つことと、客観視がうまくいかないと、「自分の望み通りになってくれない相手を延々と罰し続ける」無間地獄にはまりかねません。

悲しむのは自分を憐れむためではありません。執着を断ち切るためです。
許しがたい気持ちそのものは中々消えないかもしれません。ただ、これが執着になってしまうとご自身の心を苦しめます。

「悲しいな」「残念だな」と、自然に湧き上がれば、かなり癒しは進んでいます。

Pradoのセッションで行っていることは、もしかすると許し難さそのものはなくならないかもしれない、しかし執着は断ち切れる、そして自分自身の人生を歩み、幸せになっていく、ということです。

③-補足:怒りを癒すことへの二つの誤解

怒りはしばしば、自分を防御するために持つことがあります(怒りっぽい人、というのは内心それだけ恐れを抱えています)。
怒りを癒し、手放すことで自分を防御できなくなるのではないか・・・この潜在的な恐れが、癒しの妨げになってしまいます。
しかし、これは誤解と言っていいでしょう。

誤解1:「もし怒りが消えたら、それは相手を正当化することになるのではないか」

真実は、怒りを手放す≠相手のあり方、言動を認める、です。

例えば、殺人事件のニュースを知った時、その時は犯人に怒りを覚えるかもしれません。
でも大抵、その後殺人事件のことは忘れています。
私たちが怒っても怒らなくても、犯人の罪と担うべき責任には何の変化もありません。

怒りを手放しても、相手が担うべき責任は厳然として残っています。
ただ相手がそれに向き合うかどうかは別問題であり、これは相手本人が選択するしかありません。

誤解2:「怒りを手放すと、また傷つけられるのではないか?」

動物は自分を守るために「威嚇」します。同じ動物である人間にも、それが残っているのでしょう。
ただ、傷つけられないようにするための手立てと、怒りの感情は実は別の問題です。

例えば、すごくわがままで嫌なお客さんに腹を立てたとしても、そのお客さんが態度を改めることはありません。
それどころか、そのお客さんはますます攻撃的になるでしょう。(「何だ!その態度は!」)
わがままなお客さんへの対処方法は、まずこちらが感情的ならない事が第一です。
わがままなお客さんに振り回されない人は、怒りによって防御しているのではなく、心の落ち着き、そして理性と知恵で対応しています。

精神的な加害者は、自分が本来向き合い、処理していくべき「害」を他人に押し付け(つまり誰かを「被害者」にして、新たなターゲットを探し出して)、一時しのぎを繰り返しています。
こちらが被害者にならない、つまり「害」を受け取らないことが、実は最大の防御なのです。

④支配する親の心の根っこにある「見捨てられ不安」と「しがみつき願望」を知り、連鎖を断ち切る

支配する親もその親から、健全な愛情を注がれず、「見捨てられ不安」と「しがみつき願望」を潜在意識に植え付けられた可能性が非常に高いのです。

親も幼いころ、自立しようとすると脚をはたかれ、抱きつこうとすると振り払われ、をその親から繰り返されてきたのでしょう。
そして時には、親は甘い顔を見せて子供を安心させたかと思うと、また同じことを繰り返します。子供を飴と鞭で翻弄します。支配の常套手段です。

このような育てられ方をされたら、「この世は何て恐ろしいところだろう」と、慢性的な恐怖心と不信感を植え付けられても不思議ではありません。

親に限らず、支配したがる人の心の根っこには、この恐怖心と不信感がある、と言っても過言ではありません。

支配することによって「しがみつき」、「見捨てられ不安」を一時的に解消し、を繰り返しています。この歪んだ支配欲が満たされると、脳内にドーパミンが出て不安感が解消されたような気分になります。薬物中毒と同じことが、脳内で起こっています。

勿論これは、根本的な解決にはならず、却ってますます自我がもろくなり、自尊感情が下がります。健全な人間関係を築けません。
しかし、自分の心と向き合う根気のいる作業よりも、「手っ取り早く、一時しのぎが出来る」のでそれをしています。まさに悪循環です。

健全な親は、子供の自立を喜び、励まし、また子供の不安や悲しみをしっかり抱きしめて癒してくれます。

支配する親もその親も、このような健全な愛情を知らずに育ってきた、世代間の悲しい連鎖が起こっています。

つまりは、愛や思いやりや信頼とは、どういうものかが根本的にわからないのです。自分がないから、他人もありません。共感は「自分と他人がある」「自分と他人は違う存在」という前提があってこそのものです。共感能力は「自分というもの、つまり自我が確立しているか」に大きく左右されます。自分というものがまずあって、その自分を大事にしている人だけが、他人も大切にできます。他人を粗末に決してしません。つまり共感できます。

ですから、もしかすると、これまでどんなに悲しみや辛さを訴えてきても、まるで通じなかった経験があるかもしれません。意識的な悪意でわかろうとしないのではなく、「食べたことのない物の味がわからない」ようなものです。

しかし、この世代間の連鎖は、断ち切ることが出来ます。
実際に連鎖させずに、自信を持って幸福に生きている人もたくさんいます。
勿論この作業は、並々ならぬ労力が必要で、その大変さは正直なところ、他の人にはわかってもらえないでしょう。

その「連鎖を断ち切る」作業の最中、「何故私はこんな思いをしなければならないのだろう?」と新たな怒りを覚えるかもしれません。
勿論、その理由は私にもわかりません。

しかし確実に言えることは、連鎖を断ち切ることに成功した人の存在そのものが、これから連鎖を断ち切ろうとする人への何よりもの励みになる、ということです。

【音声版・自尊感情を高める習慣・6回コース】

1回約20分、6回コースの音声教材です。

第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

第1回目は無料で提供しています。まず一週間、毎日聴き、ワークに取り組んでみて下さい。その後更に日常の中で実践してみたくなったら、6回分の音声教材(税込5500円)をご購入下さい。

🔗第1回・要約・氣づきメモ

6回分ご購入をご希望の方は、以下のフォームよりお申し込み下さい。

    弊社よりメールにて、振込先口座をご連絡します。振込み手数料はお客様負担になります。入金確認後、6回分の音声教材とPDFが表示される限定公開のURLとパスワードをメールにてお送りします。

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。