能力があるから肯定するのは条件付きで認めること
努力して能力を高め、結果を出し、そのことで評価を得て自己肯定感を持つこと、そのこと自体は悪くなさそうですが、「あるがままの自分を大切にする」自尊感情とは異なります。
自尊感情も、自分を肯定するという意味では自己肯定感の一種ですが、条件付きで自分を肯定するものではありません。
自分の仕事に対しては、能力が上がり、実績を積めば自信がつくのは当然です。しかしこのことと、自分の存在に対する肯定感は分けて考える必要があります。そうでないと、例えば大病をしたり、体に障害を負うなどして仕事ができなくなった場合、自分の存在意義まで見失ってしまいかねません。
自尊感情は、こうしたことに左右されません。
「自分は何が出来て何が出来ないか」
「何を知っていて何を知らないか」
「何を望んでいて何を望まないか」
を把握する、メタ認知能力と関連性があります。つまり、知らないこと、できないことがある今の自分の限界を受け入れていく、という姿勢です。これが真の謙虚さの背景にあります。
メタ認知能力とは「メタ認知」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。簡単に言うと「自分を客観視する」ことです。メタとは「~を超えて」という意味です。自分を他人のように眺める力があるかどうか、そしてそれにジャッジをしない(利害の絡ま[…]
「自分は何かが出来るから、何か(評価、人気、実績、美貌、経済力等)を得ているから自分を肯定できる」だと、「100点取ったら愛してやる」を自分で自分にやってしまっています。
「ほれぼれとする自分でなければ愛せない」自己愛(ナルシシズム)がその背景に隠れています。
いじめの根源「幼児的万能感」何故人は自分いじめをするのでしょう?もしくは他人いじめをするのでしょう?自分いじめも他人いじめも根は同じです。自分を真の意味で大切にしている人は、他人も大事にできます。他人をいじめる、コントロールする[…]
また真に自信がある人は、自分よりも能力の高い人を部下やブレーンにつけて使いこなすことすらできます。
能力、実績、評価に依拠して自己肯定感を持とうとすると、自分よりもそれらを多く持っている人を自分よりも大きな存在だと思い、依存して媚びたり、自分と近い存在なら嫉妬したり、が起こります。
また自分よりも能力の低い人を内心であっても見下したり、が起こります。
つまり、自ら振り回されてしまうのです。
「這えば立て、立てば歩めの親心、歩めば勉強せいと言い」という狂歌があります。
私たち人間は、文明を発明し、産業社会の中で暮らしています。ですから、いわゆる生産性の高い人が、より高い報酬を得るのも当然と言えば当然です。
また、「少しでも能力を高めて食いっぱぐれのないように」と考えて、勉学に精を出すのも当たり前のことです。
しかし能力や生産性だけが、人間そのものの評価の尺度になってしまっては、そのうち人工知能でいいじゃないか、という世の中になってしまいかねません。
存在そのものの価値
能力が高いからといって、存在の価値が上がるわけではなく、能力が低いから、存在の価値が下がるわけではありません。ほとんどの人は他人に対してはそう思えるのに、自分に対しては中々そう思えないものです。
存在していることそのものの価値と、その人がどんな存在かもまた、区別があります。
「死んでしまえと思うくらい」憎んであまりある人がいてもいいのです。それはそれだけその人が、「心を揺らしながら」生きて来た証でもあります。
しかしその嫌な人が存在していなければ、大げさに言えば人間の歴史の何かが変わっていました。善悪とは別の次元で、その人にも存在そのものの価値があります。
「関わってはいけない人」も確かにこの世にはいます。それは「その時の自分の限界を超えている」ということです。別の誰かにとってはそうではないかもしれません。「自分の限界を超えているから、その自分はダメだ」でもまたありません。誰も「やくざとは関われない自分はダメだ」とは考えません。
そして時には、「関わってはいけない人」と出会わなければ、「世の中には『関わってはいけない人』もいる」と私たちは学ぶことが出来ません。私たちは心が傷つくような「嫌な人」から、人間に対する洞察をより深められます。生きた知恵を得ることができます。
勿論、「関わってはいけない人」の割合が高くなればなるほど、人の世は後退します。詐欺師や犯罪者を野放しにしていいわけではありません。加害者にならないことはもちろんですが、被害者にもならないことで、より平和で生きやすい世の中を創る努力は必要です。そのことと、今そうした「関わってはいけない人」「困った人」が存在していることそのものを、否定しないことはまた別です。
誰も皆、その人にとっての小さな一歩しか踏み出せない
自分には中々できないことを、世の中のためにやってくれている人に対して、慎ましい尊敬の念を抱くのもまた品位です。その時、その人と自分を比べる必要はありません。それはその人にとっては当たり前のことだったり、小さな一歩だったりするからです。
また逆も真なりで、自分では「こんなこと当たり前」「ちょっと勇気が要ったけど、どうってことない」、でも他人にとってはそうではないこともある筈です。
大事なことは、その一歩が世間の目から見て大きいか、小さいかではありません。どんな小さなことであっても、どんな心でそれをやったかです。そしてその小さな一歩を、自分から踏み出すことを軽んじないことです。「誰かが何とかしてくれる。やるのは私ではない」「誰かが『こうしろ』と言ったから」「みんながそうしてるから」のあなた任せの指示待ち人間では、どんなに能力が高かろうが、自尊感情が豊かとは言えません。
「他の人は軽々とやっているけれど、私は中々できない」それが今の自分であり、それ以上でもそれ以下でもありません。その上で、誰かがお膳立てしてくれるのを待ち続け、あまつさえ文句ばかり言うのではなく、「これなら自分にもできそうなこと」を探し出して、小さな一歩を踏み出し続ける、それが本当に自分を大事にし、自分だけの人生を生きることです。
自尊感情とは「見栄えの悪い自分」を受け入れる勇気
このことは、自分の中の「見栄えの良くない、受け入れがたい自分」を受け入れていくことと相似形です。自分自身を条件付きで認めてればいるほど、他人に対しても同じことをしてしまいます。
自分の中にも色々な自分がいる、これを受け入れれば受け入れるほど、嫌いな相手に対しても、0か100か、付き合うか、口も利かないか、の二つに一つではなくなります(それをせざるを得ない時もまたありますが)。「ここまでは付き合うけど、この部分は自分としてはNo,thank youだから、さっと引き下がる」という幅のある付き合い方ができるようになります。
意見したところで無駄な人には、相手の体面を傷つけない程度の「浅い付き合い」に留めるのも大人の知恵です。
「騙されるな」 ビートたけし
人は何か一つくらい誇れるものを持っている
何でもいい、それを見つけなさい
勉強が駄目だったら、運動がある
両方駄目だったら、君には優しさがある
夢をもて、目的をもて、やれば出来るこんな言葉に騙されるな、何も無くていいんだ
人は生まれて、生きて、死ぬ
これだけでたいしたもんだ
そしてまた、自分に対して
「自分は何が出来て何が出来ないか」
「何を知っていて何を知らないか」
「何を望んでいて何を望まないか」
これらを過不足なく知り、受け入れるのは、外側からは決してわからない勇気がいります。
自尊感情の中身には、この「外側からはわからない勇気」も含まれているのです。