Prado心理セラピーの特徴

目標を自分への罰ゲームにしないために

「~が出来ない自分はダメだから」という動機で目標を立てると

当Pradoでのセラピー・セッションでは、目標設定を最重要視します。
人はえてして、「望むこと」ではなく「望まないもの」に意識を向けがちです。しかしそのままでは「望まないもの」に結果的にはまり込んでしまいます。

また一方で、何を自分は望んでいるのか、これを常に明確に意識できている人はそう多くありません。
最初は不平不満から入るのが人の世の常で、「そうしたもの」です。不平不満にはまり込むか、悲劇のヒロインになって酔ってしまうかが役に立たないことを引き起こすのであって、不平不満は「何を望んでいるのか」を知る入口にすることもできます。

クライアント様には初回セッションの前に、出来る範囲で目標を考えて持ってきていただいています。それらは例えば、「自信をつけたい」「家族や職場の人と良好な人間関係を築きたい」「やる気を起こしたい」などになることが多いです。
どれも大切な、価値のあることですね。

しかしその目標の裏側に「自信を持てない自分は嫌だ」「人間関係がうまくいかない自分は情けない」「やる気の起きない自分はダメだ」などの気持ちが潜んでいたとしたら・・・?

この気持ちがあると、目標を持ちそれに向かって努力することがまるで自分への罰ゲームのようになってしまいかねません。それでは却って苦しい人生になってしまいます。

目標を持つことを嫌がる人の中には、「目標を持って努力する」=「罰ゲーム」もしくは「ノルマ」のように捉えている節があるのではないかと思われます。

どんなことにも理由があり、意味を見い出せます

「自分に自信が持てない」「人間関係がうまくいかない」「やる気が起きない」これらをあらかじめ望む人はいないでしょう。そして私たちは、あらかじめ望まないこと=悪いこと、と意味付けをしがちです。

しかし、例えばノロウイルスに罹った時の発熱や嘔吐や下痢など、あらかじめ望みはしない辛い症状は、それらが出なかったら私たちはウイルスにやられて死んでしまいます。

あらかじめ望まないこと即ち悪いこととするのは、実は私たちの目先の都合に過ぎません。勿論道義的に「あってはならないこと」はあります。ですが悲しいかな、私たち人は目先の都合に囚われてしまいがちです。雨が降ったら「今日は天気が悪い」と言うのと同じです。

「人間万事塞翁が馬」「災い転じて福となす」などの諺は、私たちが目先の都合に囚われないために先人たちが残してくれた知恵なのでしょう。

「どうしてあんたたちは頑張ろうとしないの!」をやってしまう間は

例えば、「チームの売り上げを上げることが目標」だった場合、「私はこんなに頑張っているのに、どうしてあんたたちは頑張ろうとしないの!あんたたちが遊んでいるせいで売り上げが上がらないじゃないの!」をやっているうちは売り上げは上がりません。

面白いことに「彼らにも彼らなりの事情がある」と受け入れて初めて、売り上げは上がり始めます。
遊んでいるように見える人達にも、その背後には膨大な曲折と事情があり、それは外からはわかりません。その背景を受け入れつつ、仕事に取り組まないことを良しとはしない、これは中々胆力が求められます。
感情や利害が絡めば尚更です。

同じように、嫌いな人、憎んであまりある人、これらの人と積極的に関わる必要はないし、嫌いなままで構いません。その一方で「自分の望みや好みとは別に、そういう人は世の中にいる。そうしたもの」と事実を受け入れて初めて、自分が一回り大きくなります。憎しみが消えてはなくならないけれど、自ら振り回されなくなります。

憎しみは知らないより知っていた方がいいでしょう、それが人間への理解を深めるのであれば。
相手への憎しみに囚われている、ということは、「憎んでいる自分を受け入れていない」「憎しみを悪いものだととらえている」だから「何で私にこんな感情を抱かせるんだ!私は人を憎んだりしない”いい人”の筈なのに!」になっている、その可能性があります。

そしてまた、「自分に自信が持てない」「人間関係がうまくいかない」「やる気が起きない」こうしたことが人生に起こること、これらも「知らないより知っていた方がいい」ことです。

こういう自分を受け入れて初めて、自分に自信が持て、人間関係がうまく行き、やる気が起こります。その自分を罰しているうちは、上記の売り上げの話と同じで、うまくいきません。

何かが出来る、出来ないよりも大切なこと

私たちは教育を受ける過程で、また仕事をする中で、能力を評価されています。特に職場は「会社を儲けさせてくれた人」を評価する場所です(「実際はそうでもない」ことも多々ありますが、建前では一応そうなってます。)。
一元的な価値観の尺度しか持っていないと、「出来る、出来ない」だけで自分を推し量ろうとしてしまいます。

何かが出来る、出来ないことよりも、更に大切なことがあるとするなら、それは何でしょうか・・・?

「何をするのか」「何が出来るか」よりも「誰の何のためにそれをするのか」

「自信を持つ」ことも「人間関係をうまくやる」ことも「やる気を起こす」ことも、そのこと自体が実は重要なのではなく、「誰の何のためにそれをするのか」の方が、心にとってははるかに大事です。
どんな目標であれ「自分のエゴを満たすため」であれば、それは回り回って自分に跳ね返ってきます。

自信を持った先に、人間関係をうまくできるようになった先に、やる気を起こせるようになった先に、待っているものは何でしょうか。

ところで先ごろ、私は生まれて初めて融資の申し込みをしに行きました。私はローンを組んだことすらなく、「融資を断られたらどうしよう」と行きの電車の中で緊張していました。

ふと、「これは誰のための融資なのか?」という心の声が聞こえてきました。
「ああ、そうだった、これから出会うクライアントに私をお役に立たせるために、融資をお願いするのだった。自分の安心のためではない」と気がつくと、先ほどまでの緊張は程良い緊張感に変わり、「断られたらどうしよう」というおびえは消えてなくなりました。

使命は他人と比べるものではないから

「なにかが出来るようになりたい」は、下図のニューロ・ロジカルレベルの「能力」に当たります。私たちは目標を「能力」や結果つまり「環境」レベルで考えています。

勿論、最終的にどのような状態になれば目標を達成したことになるのか、「能力」「行動」「環境」レベルで設定しておかないと、脳のナビゲーションシステムに番地まで入力したことにはなりません。

そして更に大事なことは、上位の「自己認識・使命」レベルから出発することです。

このニューロ・ロジカルレベルにおける「使命」は「自己認識」と同列にあります。
しばしば考えられるように「セラピーをすること」「子育てをすること」「会社を大きくすること」などの、何か特定の仕事や行動をすることが「使命」ではない、とこのニューロ・ロジカルレベルを考案したロバート・ディルツは考えました。

その仕事や行動が何であれ「誰の何のためにするのか」これが「使命」であるとしたのです。
お掃除でも皿洗いでもゴミ捨てでも、或いは挨拶一つとっても、それは一体誰の何のためなのか、私たちは常日頃は中々意識していませんが、「何をするか」或いは「どれだけ上手にするか」よりもはるかに、人生を決定づけます。

そしてこれは「自分が見つけ出すもの」であり、他人や過去の自分と優劣を比べるものではありません。

目標が「それは誰の何のためにすることなのか」という使命から出発していたら、「~が出来ない自分はダメだから」という罰ゲームには決してなりません。

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自尊感情を高めるとは、自分を大切にすることと言い換えても良いでしょう。
「でも、具体的に何から始めたらいいの・・・?」の声にお応えして7日間のレッスンにまとめました。

《レッスンの一例》

● 体の声は心の声・体の状態に耳を傾ける
● 望まない人間関係に心の中で「No」を言う
● 「今・ここ」を生きるための自分への質問

Pradoの心理セラピー・セッションでお伝えしている内容を含んでいます。

どんな自分も否定せず、そのまま見て、耳を傾けることで「生きやすさ」は増していきます。
自分を大切にすることで、打たれ強く、柔軟で、ぶれない心を・・・!

 

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