「~が出来ない自分はダメだから」という動機で目標を立てると
当Pradoでのセラピー・セッションでは、目標設定を重要視します。
人は悩んでいる最中は、目標ではなく問題に意識が向いています。問題だけに意識が向きっぱなしだと、結果的に「望まない現実」にはまり込んだままになります。
ここから、自分はどこに行きたいのか、望んでいるものは何なのかに意識を向け直すことが、目標設定の意義です。
クライアント様には初回セッションの前に、出来る範囲で目標を考えて持ってきていただいています。それらは例えば、「人目を気にせず、自然体に振る舞いたい」「家族や職場の人と良好な人間関係を築きたい」「やる気を起こしたい」などになることが多いです。
どれも大切な、価値のあることです。
しかしその目標の裏側に、
「人目を気にする自分はダメだ」
「人間関係がうまくいかない自分は情けない」
「やる気の起きない自分はダメだ」
などの自分を罰する気持ちが潜んでいたとしたら・・・?
この気持ちがあると、目標を持ちそれに向かって努力することが、まるで自分への罰ゲームのようになってしまいかねません。それでは却って苦しい人生になってしまいます。
目標を持つことを嫌がる人の中には、「目標を持って努力する」=「罰ゲーム」のように捉えている節があるのではないかと思われます。
「どうしてあんたたちは頑張ろうとしないの!」をやってしまう間は
目標設定を、一人の人間ではなく、チームの目標として角度を変えて考えてみましょう。
例えば、「チームの売り上げを上げることが目標」だった場合、誰か一人が
「私はこんなに頑張っているのに、どうしてあんたたちは頑張ろうとしないの!あんたたちが遊んでいるせいで、売り上げが上がらないじゃないの!」
と思っている、と仮定します。実際に、その人一人が頑張っていて、他の人は遊んでいるとしましょう。
これは一人の人間の中で言えば、「何で私は、頑張れないのだろう。やる気が起こらないのだろう」とつい自分を責め、鞭打っているようなことです。
さあ、この状態で、遊んでいる(ように見える)人たちが改心して、「わかりました!遊ぶのはやめて、頑張ります!!」と進んで努力をするでしょうか・・・?
そう言われてあっさり改心するくらいなら、最初からこんなことにはなっていません。世のマネジャー、リーダーが悩むことはなくなります。
口では「はーい、わかりました」としぶしぶ言っても、心の中では「なんだよ、一体。うるさいなあ」と不平を言っているのが関の山でしょう。人の世はこうしたものです。
実に面白いことに、「何かはわからないけれど、彼らにも彼らなりの事情がある」と受け入れて初めて、売り上げは上がり始めます。
遊んでいるように見える人達にも、その背後には膨大な曲折と事情があり、それは外からはわかりません。
その背景の本当のところはわからないながらも、「何か事情がある」ことそのものを受け入れる、なおかつ、仕事をさぼっていることは良しとはしない、勿論これは、決してたやすくはありません。忍耐力と広い視野、思考の柔軟性が求められます。
同じように、一人の人間の中の「やる気が起きない自分」にも、何か事情があります。
ただ「なんであんたたちは・・・!」をつい思いたくなるのも人情ですし、その悔しさを否定する必要もまた、ありません。
自己承認は「誰もが自分と同じようにはやれない」を肝に銘じるため
「何か事情がある」のは確かですが、その事情の中身はわかりません。当の本人でさえ、気がついてはいないでしょう。他人が「ああじゃないか、こうじゃないか」と憶測したところで、エネルギーと時間の無駄になります。
「何か事情がある」という事情の存在を受け入れることと、事情の中身に首を突っ込もうとすることは、また別です。しかしいずれも、目には見えないことなので、混同しやすいです。
ですから、さらに角度を変えて、「誰もが自分と同じようにはやれない、やれるわけではない」と認めると、「相手の事情の存在」を受け入れやすくなります。
自己承認の意義は、こうしたことにもあります。
自己承認を、うぬぼれ、自己賞賛、自画自賛と取り違えないことが非常に重要です。承認は、事実を認めていくことで、評価は入りません。評価はその事実に良い悪いの意味づけをすることです。そして賞賛は評価することです。自己承認は、自分のこれまでの歩みを、そのまま受け止めていくこと「ただ、そうなんだ」とジャッジせずに受け止めることです。
上記の例だと「さぼりたい気持ちをこらえて、努力してきた自分がいるんだなあ、だからこそ、悔しく思うんだなあ」と認めていくことです。
こうして自己承認を経ないと、「誰もが自分と同じようにやれるわけじゃないんだ」と思えなくなります。
「こんなの、当たり前でしょ!なんでそうしないの!」、引いては「何であんたたちは頑張ろうとしないの!」をたとえ内心であってもやってしまいます。
自己承認=うぬぼれること、ではなく、むしろ、相手に自分と同じ基準を求めてしまわないための自己承認です。
努力して成果を出してきた自負がある人ほど、要注意です。努力して成果を出すのは大切ですが、物事にはどんなことも両面があります。
これを一人の人間の中で応用するとしたら、例えば「あの時は頑張れた自分がいるんだなあ、でもいつでも同じように頑張れるわけじゃないんだなあ」と認めていくことです。これも、良い悪いではなく、事実としてそういうことが起こっている、と客観視していくことです。
人間の脳は、「正しい/正しくない」「良い/悪い」の評価をしたがります。ですから、ジャッジせずに事実をただ受け止める承認は、鍛練と習慣づけが必要です。誰にとっても、右から左にはできません。難しいな、と思うくらいでちょうどいいのです。
両方の自分を承認する、客観視の自分
「人目を気にする自分」
「人間関係がうまくいかない自分」
「やる気が起きない自分」
を、不甲斐なく思うのも人情です。しかし、この自分を罰し続けることは、繰り返しになりますが「どうしてあんたたちは頑張ろうとしないの!」を自分にやることと同じです。これを自分にして、行き詰らない人はいません。そしてこれらの自分にも、わからなくても何か事情があります。
そしてまた、人は可能性の全くないことは、最初から意識に上らず、望みもしません。アメリカ国籍のない人は、アメリカの大統領になりたいとは思いません。その可能性のある人だけが、大統領になろうと望み、挑戦します。
ですから、
「人目を気にせず、自然体に振る舞える自分」
「人間関係がうまくいっている自分」
「やる気が起きている自分」
も、ちゃんと自分の中にいます。今はー自分が望むほどにはー表に現れていないだけのことです。
「両方の自分があるんだなあ」と誰よりも自分が承認する、この承認する自分が、客観視している自分です。客観視できる自分が育てば育つほど、「どんな自分も自分」「いろいろな自分が、自分の中にいる」という自尊感情が高まっていきます。
最後に残る悲しみや悔しさをも魂の成長課題を果たし、対処方法を学び、事実を受け入れられ、気づきを得て自分の世界地図がどんなに拡大しても、事の大きさによっては最後の最後にやはり、悲しみや悔しさや許し難さが残ることもあります。セラピー・セッ[…]
この客観視している自分が、十分には育ちきっていない時、その役割をセラピストが担います。「一人で抱え込まない」意義はこのためです。そして、クライアント様の潜在意識が「ああ、十分に育った」と感じきれると、自然と卒業の時を迎えます。