愛情たっぷりに育てられた人は、概ね健全、しかし逆は常に真ではなく
弊社のクライアント様から時々受ける質問に
「親にしっかり愛されて育った人は、健全に育ち、人にも優しくできるそうですが、親から(身体的・精神的)虐待を受けて育った私は、大丈夫なのでしょうか・・・?」
があります。
世間には、「あの人は親に愛されなかったから、ひがみ根性が抜けないんだ」などと思ったり、言ったりする人もいます。
確かに、親に健全な愛情と信頼、そして承認を浴びるようにもらって育った人は、「世界は無条件に良いもの、世界が自分を歓迎してくれている」と無意識に感じ取っているでしょう。
ですので、概ね健全で、人をひがんだり、意地悪をしたりすることはめったにないようです(この世に起きることは全て例外がありますから、全員が全員ではないかもしれません)。ただそれが、すべてにおいて良いかどうかは、また別問題です。
そしてまた、ひがみ根性が抜けない人、意地悪な人、かまってちゃんやかまわせてちゃんの中には、親から健全な愛情をもらい損なった人も少なくありません。
人間の脳は一般化をしたがりますので、「親から愛された=健全で優しい」「親から愛されなかった=不健全で意地悪」などとラベルを付けて脳の中に保存したがります。
しかし現実は決して、そう単純ではありません。
結論から言えば、いわゆる火宅の家に育った人であっても、まずまず信頼関係が築け、社会に適応している人もたくさんいます。
このような人たちは、一体どのようにして、劣悪な環境に負けることなく自分を育てることに成功したのでしょうか・・・?
思春期以降「自分を育てるのは自分」の割合が増加
幼い子供にとっては家庭が全宇宙です。そして親、特に母親は子供にとって神様のような存在です。
人間は他の動物と違って、かなり長い期間親の庇護の下になければ生きていけません。
幼い子供は、親の承認と愛情、そして庇護を、どうしたら受けられるかをひたすら学習し続けます。
(「優しい子だったら」「明るい子だったら」「言いつけを守る子だったら」・・・「そうすれば自分は生き延びられる」)
思春期以前、まだ自我が発達する前の子供は、こうして親の影響をもろに受けて育ちます。
自我とは「我が強い」の「我」とは異なります。「~したい」と「~ねばならない」の調整弁となる心の器です。「~したい」だけだと「嫌な奴はいじめてやれ」に突っ走ったり、「~ねばならない」だけだと「いじめられても我慢し続けなければならない」になってしまいます。調整弁が健全に機能すればこそ、「嫌な人だからと言って、いじめたりしない」「いじめれらたら、毅然としてNoの態度を取る」ことができます。
自我を健全に保つ、即ち心の器がしなやかに強くなると、打たれ強くなります。この自我、心の器がもろいと、責任や困難から反射的に逃げたり、他人を自分の延長と捉える、すなわち「他人は自分にとって都合の良い存在。都合が悪ければ逃げるかいじめる」をやってしまいます。「相手の立場に立って考える」共感ができないのは、そもそも「自分とは別人格の他人」が存在していないからです。
自尊感情が高まるとは、この心の器がしなやかに強くなった結果でもあります。
ところで、子供は自我の発達に伴い、友達や先生など、家庭以外の「外の世界」からの影響を受けるようになります。そして徐々に、自分独自の価値観や信念などを形成していきます。
高校生頃までは、まだまだ選択の自由がありませんから、その点に於ける責任は周りの大人が取らなくてはなりません。
が、「自分を育てる責任」は、ほぼ親が全てを担っていた幼少期から、徐々に自分自身の割合が大きくなります。
そして成人以後はー若いうちは周囲が「教えて」くれたとしてもー「自分を育てるのは自分」です。
「子供が自分で自分を育てられるようになる・すなわち自己教育」の環境づくりを、幼少期の頃から行うこと。心の器である自我を、子供自身が守り、育てられること。
これをしている親が真に賢く、愛のある親でしょう。
つまり、親の愛情⇒健全に育つ、というダイレクトな因果関係ではなく、親の愛情⇒「自分で自分を育てる」環境づくり⇒健全に育つ、という中間のプロセスがあります。
自分で自分を育てるとは、自分と向き合うことであり、孤独に耐える力が必要です。
親の愛情が不足していても、自己教育に成功した人に共通する特徴
ならば、親の愛情のいかんにかかわらず、「自分で自分を育てる」ことが出来る人は、おのずと健全に育つ、ということになります。
そしてそういう人は、実際にたくさんいます。
つまり自分次第で、「どんな風にもなれる」ということです。
先述した自我は、健全に保てると責任を負うことを厭わなくなります。そして逆もまた真なりで、責任を持つことで、即ち「自分はどうしたいか」を考え、行動に移すことによってもまた、強くなっていきます。
三重苦のヘレン・ケラーの家庭教師アニー・サリバンは救貧院で育ちました。福祉施設とは名ばかりの大変劣悪な環境だったそうです。映画や演劇の「奇跡の人(原題 The miracle worker)」はヘレン・ケラーではなく、アニー・サリバンのことです。
またアメリカで最も成功した黒人女性と言われる、オプラ・ウインフリーも、彼女の生い立ちは苦難の連続でした。
そして弊社のクライアント様で、辛い家庭環境に育ったにも関わらず、自己教育に成功されたクライアント様に共通する特徴があります(これはあくまで私の経験上のことで、これが絶対条件ではありません)。
- 読書の習慣がある
- 日記やブログなど、自分の考えを言語化しまとめる習慣がある
- 「頑張ればできる」という経験がある
- 責任のある仕事を持っている、あるいは持っていた(仕事を「こなす」のではなく、主体的に取り組む)
- 友人、配偶者、恋人など、「心から信頼できる人」が少なくとも一人はいる
読書は脳の前頭連合野を鍛え、客観性や想像力、思考の柔軟性が増します。また日記やブログなどの言語化も、「自分が何を感じ考えているのか」の客観視に役立ちます。
勉強にしろスポーツにしろ「頑張ったらできた、結果を出せた」のは、それを親が否定しようとしまいと、厳然たる事実です。
頑張った成果を、親に無視されたり、あざ笑われたりされると、子供の心は深く傷つきます。
しかしそれでもなお、「人がなんと言おうと、私は頑張ればできる」という経験は、動かしがたい支えになります。
仕事に主体的に取り組むのは、責任が生じますが、この責任は心の筋肉を鍛え、心の器を強くする役割があります(「言われたことをこなしているだけ」ではいつまでたっても心は鍛えられません)。
また「心から信頼できる人」の存在はーそれが依存でない限りー「人間はそう捨てたものではない」という暗示になり、同じく自分自身にとっても「自分はそう捨てたものではない」という暗示になります。
自分が必要と思っていることと、本当に必要なことは異なることも
親からの愛情が欲しい、それを必要だと思うのは万人同じでしょう。犬猫でさえそうです。これは哺乳類が持つ本能と言っていいでしょう。
だからこそ、「欲しかったのに、必要だったのに、得られなかった」と葛藤が生じます。本能は消せないからです。
一方でどんなことでもそうですが、「自分が必要だと思っていたことと、本当に必要なことは異なる」ことは、往々にして起こります。
結論から言えば、自分が豊かな人間性を育めてさえいれば、親からの愛情があってもなくても、それは自分の寂しさだけの問題で、周囲との関係性においては概ね問題は起きません。「困った人」に手を焼くことはあっても、その人自身が周囲からの信頼を失ったりはしないでしょう。
豊かな人間性を育むのは、親だけの影響ではありません。出会った人、読書経験、映画やドラマ、様々な経験を通して、私たちは自分の人間性を育んでいきます。
それらの出会いをキャッチできる感性を磨き、そしてただ「良かった、感動した」だけで終わるのではなく、そうした人の在り方を自分のものにしようとする意識的な努力があってこそです。
これらは、すべて自分がやることです。
ここで言う自己教育とは、こうした終わりのない、かなり意識的な努力を指します。
自分と向き合うことは、自分の人生に責任を持つこと
人間関係の向上にせよ、トラウマの解消にせよ、自分と向き合う姿勢が必須です。これを抜きにして、何かのテクニックや○○療法がどうにかしてくれるわけではありません。別の言い方をすれば「だって、どうせ」を言っている間は何も変わりません。寧ろその人の自尊感情は下がる一方です。
そして自分と向き合うには、勇気がいります。
セラピストは寄りそい、励ますことはできても、勇気そのものをクライアント様に「差し上げる」ことはできません。
生まれ育った環境が辛いものだった、それはその人の責任ではありません。
しかし、その自分と向き合うかどうかは、その人にしか選べません。
自分と向き合うことから逃げなければ、これまでの経緯がどうあれ、アニー・サリバンやオプラ・ウインフリーや、私のクライアント様のように「人の心を打つ」生き方をすることはできるのです。