怒りはエネルギーが強いもの、良くも悪くも
人間の感情は大別すると快か不快に別れます。
不快な感情には、不安、恥ずかしさ、寂しさ、悲しみ、色々ありますが、その中でも怒りはエネルギーが大変強いです。
この怒りのエネルギーをうまくコントロールできないと、「キレ」て相手を攻撃したり、直に攻撃できない時はより立場の弱い人に八つ当たり(バッシングの背景にはこうした感情の投影があります)して、溜飲を下げようとすることがあります。
また発散できずに溜めこむと、自分を攻撃したり(「情けない」「自分はダメだ」)、体の症状に出ることがあります。
一方で、怒りは社会を変革するエネルギーにもなり得ます。
今でこそ男女平等は(建前では)当たり前になっていますが、ほんの20~30年ほど前まではおおっぴらに「女のくせに」「女はひっこんでろ」などと言われたものです。
性別だけでなく、様々な差別を撤廃するにあたって、差別への怒りが原動力になり、社会を変えてきました。
それくらい、怒りのエネルギーは強いのです。
怒りは境界線を侵されているサインであることも
怒りそのものは悪くありません。寧ろ、自尊感情が低いと自分を蔑ろにされても怒れない、やられたい放題の奴隷になり、そのことに自分が氣づけず、逃げ出すことすらできなくなります。
怒りは自分の境界線を侵されているサインでもあります。しつこいセールスマンにイライラするのは、金銭的な境界線を破られているサインであり、大した理由もなく安易に遅刻する人に腹が立つのは、時間の境界線を侵されているサインです。
人の顔色を窺うことが習慣に成ってしまっていると、自分の怒りを抑え込み、迎合に走ります。或いは揉めるのが面倒だからと事なかれ主義で逃げてしまったり。その場の波風は立たないかもしれませんが、誠実な態度とは言いきれません。
怒りと境界線の関係性については、以下の記事をご参照ください。
境界線問題の4タイプ・迎合的、回避的、支配的、無反応境界線問題は「No」と言えない人だけのものではありません。最も「割を食う」のは、「迎合的な人」、即ち「自分が我慢すれば良い」と譲ってばかりいたり、また「怒ってはいけない」[…]
怒りは怒りとして感じつつ、受け止めつつ、但しエネルギーが強いからこそ、上手に扱い、出来る限り暴発させずに表現し、また癒していく必要があります。
「上手くやれなかった自分」に対する怒りを癒す
腹の立つ出来事が終わった後、嵐のような感情の高ぶりが過ぎ去っても、怒りそのものが消えてなくなったわけではない・・・上手に処理しないと、この事がむしろ、私たちの心身を蝕みます。
「その出来事」自体は終わってしまったので、相手に抗議することはもうできない、でも何か悶々とした気持ちが残っている、多くの人がこのような経験があるでしょう。
その場で発散できれば、感情面では楽になります。しかし大人は、「その場では押さえざるを得ない」ことが多いです。
この「悶々とした怒り」が内向すると、相手に対してのみならず「上手くやれなかった自分」に対する怒りにも変わっていくことがあります。
そして「上手くやれなかった」=「自分は駄目だった」「自分は駄目だ」となり、「そのままの自分で価値がある」の自尊感情を低下させかねません。
よく自己啓発の本で「物事を上手く行かせるためには、セルフ・イメージを上げましょう」とありますが、セルフ・イメージを上げるとは、上手く行った自分だけをイメージしたり、ビジョンマップを作って貼ったりするだけでは足りません。
「上手くやれなかった自分」に対する怒りが癒されないと、「駄目な自分」のイメージを自分で刷り込んでしまいかねません。
怒りは二次感情の例
ところで、怒りは二次感情と言われます。元々は別のネガティブな感情が、怒りに変わっていくのです。
例を挙げると、友人と待ち合わせをしていた時、その友人が10分たっても20分たっても現れない。携帯に電話をしても出ないし、メールをしても返信がない。
「どうしたんだろう・・・。事故にでもあったんじゃないか」
と心配し始めます。30分位たった時、その友人がけろっとした顔をして、
「あー、ごめーん、待った~?」
などとこちらの心配をよそに現れると
「『待った?』じゃないわよ!遅れるんなら連絡ぐらいしてよ!!」
と怒る。この怒りの感情は元々は「心配」でした。
怒りの下には、元々は別の感情があります。元の感情の段階で処理できると、下の「怒りの火山」の絵のように激しい噴火にはなりません。

この待ち合わせの例は比較的、元の感情がわかりやすいものです。
しかし多くの場合、自分でも中々わかりにくいでしょう。というのは、脳は大変素早く反応するので、元の感情が氣がつかないうちに「怒り」に変わってしまうからです。
ただ、怒りそのものを癒そうとするよりも、元々の感情を理解した方が、エネルギーが小さくなり癒しやすいです。
また相手に伝える時も、「腹が立った!」「むかつく!」のように怒りそのものを伝えると、相手はそれだけで圧迫感を感じてしまいます。
怒りの元になった感情(「残念だ」「心配した」)を伝えた方が、同じ事実でも相手に受け入れてもらいやすくなります。
怒りの元となった感情を探すワーク
このワークはあくまで 練習として取り組んでみてください。「一ヶ月後にはきっと忘れているだろうけれど、今はもやもやする」といった、「どんな人生にも起きがちなこと」を取り上げるのがコツです。心が深くえぐられるようなこと、数年以上のトラウマになっていることは、様々な感情や思い込みが絡み合っていますので、自分一人では難しく感じるのが自然です。
《STEP 1》
もし貴方が癒し切れていない怒りがまだあれば、以下のワークで「元の感情」を探し出してみましょう。
怒りを感じたその出来事について、貴方は相手にどうしてほしかったでしょうか?或いは貴方はどうしたかったでしょうか?
《例》
「頭ごなしに怒鳴らず、言い分を聞いてほしかった」
「私からメールするばかりでなく、彼からもメールしてほしかった」
「仕事を安請け合いせず、断りたかった」
抽象的な「信頼してほしい」「理解してほしい」などではなく、できるだけ具体的に、目に見えるような行動レベルで、「してほしかったこと」「したかったこと」を書き出してみることがコツです。
《STEP 2》
次に
「~してもらえなかった/~できなかったことが○○と感じた」
という文章にして、○○の部分に怒り以外の感情を当てはめるとするなら何か、を考えてみましょう。
「私は言い分を聞いてもらえなかったことが悲しいと感じた」
「彼からメールをもらえなかったことが寂しいと感じた」
「断れなかったことが不甲斐ないと感じた」
それぞれ怒りの元の感情は
- 悲しみ
- 寂しさ
- 不甲斐なさ
になります。そしてこれらの感情も、怒りと同じく、良い悪いはなく、「感じて当然」のことばかりです。
まずは自分自身で「悲しい/寂しい/不甲斐ないと感じたんだな」とその感情をしっかりと受け止めてみましょう。
怒りはどうしても、攻撃的になりがちです。そして心ある人ほど、攻撃的になる自分に罪悪感を感じてしまいます。ただ罪悪感は慢性化すると、私たちの自尊感情の低下の原因となります(「こんな感情を抱く自分はダメだ」)。また「あの人のせいでこんな気持ちにさせられた」の被害者意識にもなりやすいです。
怒りの元になった感情を探す習慣は、ネガティブな感情を受け入れ、そう感じている自分を肯定するためにも、大変効果的です。
※「私は悲しい」と「私は悲しいと感じた」の違い
英語にすると”I’m sad.” (私=悲しい)と”I feel sad.”になります。I feel sad.は「私」と「悲しい」が一体化せず、少し距離ができます。距離が出来ると、より客観的になれ、感情を癒しやすくなります。
怒りは自分の信念や価値観、生き方が反映されていることも
上記のワークは、日常で起こりがちな、比較的小さな行動レベルで感じる怒りを扱っています。つまりDoです。Doは大抵の場合、その困った行動が改められたり、またそれをする人が自分の傍からいなくなると忘れてしまうレベルのことです。何度注意しても同じミスを犯す部下や同僚にその都度腹を立てても、その人が職場からいなくなれば忘れてしまいますし、そうでなくても余程のことでもない限り、「夜も眠れないくらい腹が立つ」ことはそうそう起きないでしょう。
もっと根深く、中々収まらない怒りは、Be、あり方、即ち価値観や信念、生き方のレベルで怒りを感じています。日常会話的な言葉にすれば「それって人としてどうなの⁉」というレベルのことです。ですから、相手が失念してメールの返信が来なかったなどということとは違い、非常に許しがたく感じます。
その時、相手の態度の何が許しがたかったか、これもまた自分に質問してみます。一度では答えが返ってこない場合は、何回か訊いてみます。
偽善、狡さ、無責任さ、事なかれ主義の保身、等々。これらを許しがたく感じているということは、当たり前ですが自分の心が反応しているということです。同じことをされても、何とも感じない人もいます。何とも感じないのが良いわけでは勿論ありません。正義感が強い人ほど怒りを感じやすいものです。他人の痛みに心を寄せればこそ、激しく怒ることもあります。
その許しがたく感じているあり方は、とりもなおさず、自分の生き方の反映です。自分がそれを嫌い、良しとは決して思えないから反応しています。そそっかしくて何度も同じミスをされるなどのような、「腹は立つけど、どこに行っても、まあそんなこともあるか」とは思えないレベルのことです。
それが自分の生き方であり、曲げることや変えることはできません。自分を否定することだからです。私たちにできることは、その許しがたい態度を取る相手と、どのように関わるか、或いは関わらないかを考え、決めることです。自分のBeは急には変え難く、また必ずしも変える必要はないこともあります。けれども、Doを修正したり、工夫したりする必要はある、ということです。そしてまた、Doの変化に伴い、自分のBeが徐々に変わっていくこともしばしばあります。
自分の生き方を明確にすればするほど、信念を強く持って真剣に生きれば生きるほど、Doレベルでは早目に怒りを処理できるようになっても、Beレベルの怒りに反応することは寧ろ増えます。自尊感情豊かに生きるとは、ルンルンで楽しいお花畑になることの、正反対なのです。
怒りの根源には「孤独に耐えるのが辛い」が隠されていることも
また、怒りとは実は、「事実の受容」(良い悪いは別として「相手はそういう人だ」という事実)に対する抵抗でもあります。
事実の受容をするのが苦しいので、相手を「何で(私の望むように)変わってくれないんだ!」と責める、これが怒りの正体になっていることがしばしばあります。
そしてこの「事実の受容に対する抵抗」の奥には、「孤独に耐えるのが辛い」が隠されていることがあります。
相手が自分の望むような人でいなかったら、好きだった友人としてのその人を失うかもしれない、それを辛く感じるのもまた、人間として当然のことでしょう。
一旦好意を持ち、信頼を寄せた人を失いそうになると、脳は激しく抵抗します。お互いに冷め切っていない限り、カップルの別れ話が揉めるのはこのためです。また、詐欺師が感じが良く表面上は親切なのは、人間のこの心理を知り尽くしているからです。だからこそ、信頼はしても、縋りつかない自立した自分を育てておくこと、そして「悲しみや失望を抱えながら生きる力」を養うことも、事実を受容する力のために大変重要です。
怒りの元となる感情を癒し「自尊感情の低下」に歯止めを
これから先は「自尊感情を高める7つの習慣」をご参照いただけたらと思います。
いずれにしても、不快な感情は私たちに氣づきをもたらし、私たちの世界地図、即ち世界観を拡大する契機にもなり得ます。不快な感情がなくなれば、それは楽です。しかし、楽が良いとは限りません。怒りにせよ、悲しみにせよ、それらを生かし、原動力にし、より高い次元のものに昇華するのも、自尊感情豊かな生き方です。
セラピー・セッションで行っていることの一つには、クライアント様の怒りの下の「傷ついた感情」は何かを共に探り、この傷ついた感情をご自身が受け止め癒していくお手伝いもあるのです。