Prado心理セラピーの特徴

心理セラピーは「しあわせはいつも自分のこころがきめる」(相田みつを)ということ

「だってあの人が・・・」にはまり込んでいる間は

当Pradoのサイトでは、かなりしばしば「幸福は自分の責任」と書いています。有名な相田みつをの言葉を借りれば「しあわせはいつも自分のこころがきめる」です。

もしかすると「えー、だって上司が(夫が、子供が、誰それが)~~なことをするんだもん、何で私の責任なの!?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。かつては私もそう思っていました。

確かに、その人が言ったりやったりしたことは、どう考えても「悪く」、そして貴方には何の責任のない、理不尽な仕打ちだったかもしれません。
そしてその理不尽な仕打ちに傷つき、腹を立てるのも当然のことで、そのこと自体は何も悪くありません。

ですが「だってあの人が・・・」の中にはまり込んでしまっている間は、どう考えても幸福な状態とは言えないでしょう。
心の幸福とは、傷ついた辛い感情そのものに大切に向き合いながら、「だってあの人が・・」(もしくは「何で私はこんなにダメなの!?」)のコップの中の嵐から出る、ということです。

「『出来事』の道義的責任」と「自分の反応と選択の責任」を分ける

私たち人は誰も身勝手なもので、「望ましいこと」「自分が『快』と感じること」が起こると「幸福」なことが起こったとラベル付けをし、「あらかじめ望まないこと」「自分が『不快』と感じること」が起きると「不幸」なことが起こった、とまたラベル付けしがちです。

同じ出来事でも人によって、或いは状況によって「望ましいか望ましくないか」「快か不快か」は違うにもかかわらず、「起きた出来事」そのものが幸か不幸かであるかのようにとらえてしまいます。同じ「雨が降った」ことでも、状況が違えば「良かった」「悪かった」と違うラベルを貼っている、そうしたことを私たちはよくやります。

人間は社会的動物なので、今自分が生きている共同体の中で、道義的(道徳的)に「正しい」「正しくない」とされていることはあります。それに沿わなければ共同体を壊すことになってしまいます。
ですから、道義的に正しくないことをした人には、変わってもらうか、共同体から出て行ってもらう、人間の歴史はこれのくり返しです。

そしてこの「道義的責任」はある程度普遍的なもの(騙してはいけない、意地悪をしてはいけない、暴力をふるってはいけないなど)と、時代や地域、文化によって変わるものがあります。

相手がこの「道義的責任」を果たしていなければ、出来事の「道義的責任」については自分のものではありません。例えば相手が「嘘をついた」のであれば、「嘘をついた」道義的責任は相手のものです。

しかしその出来事に、どのように反応し、選択をするのかは自分だけが決められることです。他人が「強いる」ことはできません。強いられたように感じても、結局は自分がそれを選んでいます。

「嘘をつかれた」ことに怒りを覚えたなら、その感情の責任は自分のものです。自分も嘘をついて平気な人なら、もしかすると嘘をつかれても怒らないかもしれません。怒ることが良いとか悪いとかではなく、「その感情(反応)は自分のものだ」ということです。

ただこの反応と選択は通常無意識が行い、また大変素早く反応しているので、私たちは「自分が選択している」という自覚を中々持っていません。だからしばしば「あの人が私を怒らせた」と思ったり言ったりします。

自分の反応と選択は、他人から強いられることはできない、つまり自分だけが変えられます。
心理セラピーで行っていることは、この「反応と選択」をどう変えて行くか、ということです。

怒りや悲しみ、憎しみさえも「感じて良いんだ」と受け入れつつ(「嘘をつかれた時に怒りを感じる」のは人として当然のことです)、それに振り回されない(いつまでも怒りを引きずらない、など)自分になることも「反応と選択を変える」ことになっていきます。

「あらかじめ望みはしないこと」が起きるのが人生

どんな人生にも「あらかじめ望みはしないこと」は起きます。

どんなに「立派な」人達の集まりにも、妬みややっかみ、おべんちゃらを言って取り入ろうとすることは起こっています。
将来に不安を感じているのは「自分」なのに、他人が上手くいっているのを見るとその不安が刺激され、心中穏やかでなくなるのも人の世の常です。そしてそれをどう処理し、表現するかはその人の品位にかかってきます。つまりその人の選択です。

自分の反応と選択は自分の責任、これを生きるように努めるほど、あらかじめ望まないことが起きた際、多少のことであれば「まあ、こんなこともあるか」「そうしたもの」「そんなもの」という”良い”加減、”良い”塩梅ができるようになってきます。
この”良い”加減、”良い”塩梅が柔軟性の一つの側面です。

これが出来なくなると「0か100か」「白か黒か」「~べき」で生きるようになり、結果自分や他人を追い詰めてしまいます。行き過ぎた他罰や自罰(他人や自分を責めること)は、この”良い”加減、”良い”塩梅が出来ていないためでもあります。

「幸福は自分の責任」を生きていない人ほど、他人を「救ってあげよう」とします

辛そうな人を見ると心を痛めるのは、人間として自然な反応であり、思いやりの入り口になります。
ただ思いやりとは「相手の立場になって考える」想像力であって、「心を痛める」情緒とは実は別のことです。

これまで見て来た通り、人は自ら道義的責任を果たすことにより、他人の幸福の「環境づくり」をすることはできます。いくら「幸福は自分の責任」とは言え、何をやっても良い、道義的責任を果たさなくていい、ということには決してなりません。

ただ用意された環境を「幸福だ」と感じるかどうかはその人次第です。どんなに恵まれた環境にいようと、それを「当たり前だ」と思っている人は幸福にはなりません。どんな環境に置かれても、感謝出来ない人は不幸なのです。

そしてまた、「幸福は自分の責任」を生きていない人ほど、他人を「救ってあげよう」とします。これは「幸福は誰かから『与えられる』ものだ」と思っているからです。だから「自分も誰かに幸福を『与えられる』」と思い込んでいます。
そして相手が自分の望んだような反応をしないと、「こんなにしてあげたのに・・・!」と勝手に恨みがましく思ったりします。

無関心や冷淡さと同じくらい、或いはそれ以上に、実は自分のエゴの押し付けでしかない「救ってあげたい」が人間関係をこじらせているようです。自分では善意のつもりですから、相手の自尊感情を傷つけていることに気付かず、何度でも繰り返すこともあります。

「幸福は自分の責任」を生きている人ほど、自分がやれる、自分がやっていい限界をわきまえられます。だからこそ、自分ではどうにもできない事柄(「あの人何でああなの!ああしないの!」「せっかくしてあげたのに!」)に自分から振り回されにくくなります。

自分の心の幸福は、「ラッキーなことが天から降ってくる」ことではなく、地道な、そして他人からはわからない不断の努力の結果でもあるのです。だからこそ、その人次第で誰でも幸福になれるのです。

無料ステップメール「自分を大切にする7日間のレッスン」

自尊感情を高めるとは、自分を大切にすることと言い換えても良いでしょう。
「でも、具体的に何から始めたらいいの・・・?」の声にお応えして7日間のレッスンにまとめました。

《レッスンの一例》

● 体の声は心の声・体の状態に耳を傾ける
● 望まない人間関係に心の中で「No」を言う
● 「今・ここ」を生きるための自分への質問

Pradoの心理セラピー・セッションでお伝えしている内容を含んでいます。

どんな自分も否定せず、そのまま見て、耳を傾けることで「生きやすさ」は増していきます。
自分を大切にすることで、打たれ強く、柔軟で、ぶれない心を・・・!

 

無料ステップメールに登録