Prado心理セラピーの特徴

「あの人どうにかして」からの解放・反応と選択は自分のもの

自分の都合で「幸・不幸」をラベル付けする人間の身勝手

私たち人は誰も身勝手なもので、「自分が望むこと」「自分が『快』と感じること」が起こると「幸福」なことが起こったとラベル付けをし、「あらかじめ望まないこと」「自分が『不快』と感じること」が起きると「不幸」なことが起こった、とまたラベル付けしがちです。

同じ「雨降り」でも、「ああ良かった、庭の水まきをしなくて済む」「アンラッキーだ、今から外出するのに」と違うラベルを貼る、そうした(身勝手な)ことを人はよくやります。

天候のように人間が引き起こしたことではないことなら、「自分の反応は身勝手なものだ」と気づきやすいでしょう。

しかし、これが人が引き起こしたことだと、事は少々複雑になります。

共同体の中でしか生き延びられないためにできた「正しさ」

相手が道義的(道徳的)責任を果たしていないと、つまり「悪い」ことをして、迷惑がかかると、或いはかかっていなくても、糾弾したくなることがあります。「あの人、どうにかして」

これは人間が共同体の中でしか生きられないため、DNAに刻まれているのではないかと思われます。いわゆる「バッシング」は、こうしたことが遠因かもしれません。

どういうことかと言うと、人間は他の動物と比べ、格段に弱い肉体を持っているので、共同体を作らなくては生き延びていけません。人間が社会的動物と言われるゆえんです。

そして共同体を維持するために、道義的(道徳的)に「正しい」「正しくない」とされていることを人間は発明しました。共同体のルールであり、それを常識とか、道徳とか呼んだりもします。他の動物にはないことです。そしてそれに沿わなければ共同体を壊すことになり、結果として人間は生き延びていけません。

ですから、道義的に正しくないことをした人には、変わってもらうか、共同体から出て行ってもらう、人間の歴史はこれのくり返しです。

この「道義的責任」はある程度普遍的なもの(騙してはいけない、意地悪をしてはいけない、暴力をふるってはいけないなど)と、時代や地域、文化によって変わるものがあります。

「正しさ」を振りかざしたくなるのは、「そうしなければ共同体が壊れる。共同体が壊れると生きていけない」恐怖からくるのかもしれません。

「『出来事』の道義的責任」と「自分の反応と選択の責任」を分ける

相手がこの「道義的責任」を果たしていなければ、出来事の「道義的責任」については自分のものではありません。例えば相手が「嘘をついた」のであれば、「嘘をついた」道義的責任は相手のものです。

しかしその出来事に、どのように反応し、選択をするのかは自分だけが決められることです。他人が「強いる」ことはできません。強いられたように感じても、結局は自分がそれを選んでいます。

「嘘をつかれた」ことに怒りを覚えたなら、その感情の責任は自分のものです。自分も嘘をついて平気な人なら、もしかすると嘘をつかれても怒らないかもしれません。怒ることが良いとか悪いとかではなく、「その感情(反応)は自分のものだ」ということです。

「嘘をつかれて怒りを覚える自分でよかった」と自分を認めていくこともひとつです。こうして、自分の反応を自分でなだめることもできます。

ただこの反応と選択は通常無意識が行い、また脳は大変素早く反応しているので、私たちは「自分が選択している」という自覚を持っていません。だからしばしば「あの人が私を怒らせた、だってあの人が嘘をつくという悪いことをしたから」と思ったり言ったりします。だからこそ「あの人、どうにかして」が出てしまいます。しかし、人間は自分が変わろうとしなければ変わりません。

人間関係の悩みとは、「あの(道義的に悪いことをする)人、どうにかして」と、「人は自ら変わろうとしなければ変わらない」のせめぎあいとも言えるでしょう。

人は自ら変わろうとしなければ変わらないのなら、自分が変わった方が早い、柔軟性がある人はこのことが腑に落ちています。そしてこれは、行動や捉え方を変えることであって、自分の全人格を否定することではありません。

心理セラピーで行っていることは、この行動と捉え方、つまり「反応と選択」をどう変えて行くか、ということです。

嘘をつかれた例なら、怒りを感じる自分を受け止めながら、「残念ながら、世の中にはそうした人もいる」と受け入れていくこと、などになります。

「あらかじめ望みはしないこと」が起きるのが人生

どんな人生にも「あらかじめ望みはしないこと」は起きます。

自分の反応と選択は自分の責任、これを生きるように努めるほど、あらかじめ望まないことが起きた際、多少のことであれば「まあ、こんなこともあるか」「そうしたもの」「そんなもの」という”良い”加減、”良い”塩梅ができるようになってきます。過剰に反応的になるとは、些細なことでさえ「そんなこともあるか」と受け流せないことです。
この”良い”加減、”良い”塩梅が柔軟性の一つの側面です。

これが出来なくなると「0か100か」「白か黒か」「~べき」で生きるようになり、結果自分や他人を追い詰めてしまいます。行き過ぎた他罰や自罰(他人や自分を責めること)は、この”良い”加減、”良い”塩梅が出来ていないためでもあります。

「幸福は自分の責任」を生きていない人の、善意のつもりのお節介

相田みつをの有名な言葉に、「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」があります。

人は誰かを幸せにしてあげることなど、そのような大それたことはできません。幸せを「強いる」ことは誰にもできません。逆から言えば「自分を幸せにできるのは自分だけ。幸福は自分の責任」ということです。

人は自ら道義的責任を果たすことにより、他人の幸福の「環境づくり」をすることはできます。いくら「幸福は自分の責任」とは言え、何をやっても良い、道義的責任を果たさなくていい、ということには決してなりません。それをすれば自分が共同体の破壊者になってしまいます。

ただ用意された環境を「幸福だ」と感じるかどうか、その反応と選択は相手のものです。どんなに恵まれた環境にいようと、それを「当たり前だ」と思っている人は、決して幸福にはなりません。どんな環境に置かれても、感謝出来ない人は不幸なのです。

そしてまた皮肉なことに、「幸福は自分の責任」を生きていない人ほど、他人を「救ってあげよう」とします。母親が自分の人生を放り出して、子供に取りつく過干渉などがそうです。これは「幸福は誰かから『与えられる』ものだ」と思っているからです。だから無意識のうちに「自分も誰かに幸福を『与えられる』」と思い込んでしまっています。
そして相手が自分の望んだような反応をしないと、「こんなにしてあげたのに・・・!」と勝手に恨みがましく思ったりします。

人間関係のいざこざは、いじわるや無関心よりもむしろ、「自分では善意のつもり」で相手を追い詰めていることの方が多いようです。あからさまないじわるは、自分がその共同体からはじき出されるリスクがあり、進んでそれをする人は少数派でしょう。

自分では善意のつもりとは、相手が望む前にアドバイスをする、そして相手がアドバイスを受け入れるまでしつこく言う、相手がまだ傷ついているうちに「あの人だっていいところがあるんだから」をつい言ってしまう、先回りして世話を焼きすぎる、等々です。厄介なことに、自分では相手をどれだけ傷つけているかの自覚がありません。

これを自然にやめられるようになるには、自分の反応と選択に向き合うという習慣を通して、自分ができることは本当に限界があるのだということを、受け入れていくことのように思います。自分の限界を受け入れること、これも自尊感情の中身のひとつです。

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どんな自分も否定せず、そのまま見て、耳を傾けることで「生きやすさ」は増していきます。
自分を大切にすることで、打たれ強く、柔軟で、ぶれない心を・・・!

 

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