「人は完全な存在」・・「とてもそうは思えない!」
「人は誰でも、いつでも完全な存在」・・・こういう言葉を聞いたことがあるかもしれません。
「いや、とてもそうは思えない!」「私はあれも出来ないし、これも出来ないし」「あんないじわるなあの人が、とても完全だとは思えない!」「そんなの、きれいごとでしょ!?」
・・・そんな風に思っても当然です。「人は完全な存在」とは、全てにおいて品行方正で、何でもできて、人を傷つけたり迷惑をかけたりすることがない、神様のような存在だ、ということでは決してありません。そんな人はこの世にはいません。
「人は完全な存在」とは、人の成長や学習を「欠けた丸を埋めること」ではなく、「丸を大きくすること」と捉えることです。あたかも、木の年輪が広がるように。若木は年輪が少なく、まだ細い木です。まだうんと細くはあっても「木としては完全である」ということです。そしてだからと言って、木としての成長、つまり年輪を重ねることをやめていいわけではありません。
成長や学習を「欠けた丸を埋めること」と思っていると
自分を「欠けた丸」だと思い、「成長や学習は『欠けた丸』を埋めること」と捉えてしまう。「ほれぼれとする完璧な自分でなければ愛せない」のナルシシズムがあると、こうした考え方をしがちです。しかし人間、成長や学習に「これで完璧、これで終わり」はありません。
そうなると、努力すればするほど、「私はいつまでたっても欠けた丸」だと思い込んでしまいます。燃え尽きてしまったり、努力が憎くなってしまったり。真面目な努力家ほど毎日が苦行になってしまいます。
自分を「小さくても完全な丸」と思えると
自尊感情、即ち「あるがままの自分でOK」とは、「自分はほれぼれとする完璧な存在だと思いたい」こととは正反対です。まだまだ途上ではあるし、恨みや憎しみが煮えたぎることや、全てを放り出してただ寝ていたい!ということもある自分も全て含めて、小さくても、完全な丸だと思えている、ということです。
私たちは、生まれたての赤ちゃんにー何もできない赤ちゃんにー「そのままで愛おしい、尊い存在だ」と感じることが出来ます。何もできないけれど、存在そのものが完全である、赤ちゃんの愛おしさは、単に小さくかわいいだけではなく、こうしたことにあるでしょう。
生まれたての赤ちゃんは私たちに、「人はそのままで完全な丸なんだよ」と教えてくれているかのようです。
生まれたての赤ちゃんは完全な丸ですが、小さな小さな丸です。赤ちゃんは私たち大人と違って、「こんな何もできない自分じゃ恥ずかしい」などの虚栄心は抱きません。そんな虚栄心を持たないからこそ、赤ちゃんはこの小さな丸の上に次々と学習を重ねて、ぐんぐん大きな丸になっていきます。大人とは比べ物にならないスピードで。これが成長する、ということです。
自分を「欠けた丸」と思っていると、困難・チャレンジ・新たな学習を「私が欠けた丸だから・・・」と卑下したりすねたりして拒絶しがちです。
小さくても完全な丸だと思っている人は、困難をーその時どんなに辛い思いをしたとしてもー「これは自分の丸を大きくするチャンスだ」と捉えられます。赤ちゃんと同じように、ぐんぐん成長できるのです。
学習とは小さな丸の上に、大きな丸を重ねること
ところで学習とは、全く初めてのことを学ぶようでも、実は以前に学習したことの応用を私たちは行っています。それを普段は余り意識していないかもしれません。
例えば、英語の学習を始めた時、英語そのものは初めてでも、「言葉を学ぶ」ことは以前に習得しています。英語の学習もその応用です。
社会人になりたての時、クレームの電話対応を怖いと感じた事もあったかもしれません。しかし「率直にお詫びする」や「少々怖く感じた人とも接していける」学習を経ていればこそ、この学習の上に「クレーム対応」の学習を重ねています。
海外旅行は初めてでも、国内旅行はしたことがあるでしょうし、国内旅行が初めての時も、知らない土地に行ったことはあるでしょう。
学習とは、同じパターンに違うコンテンツを重ねていくこと、つまり木の年輪を重ねるように、丸を大きくすることなのです。
困難を乗り越えられるのは「あるものでやる」発想が出来る人
ところでまた、起業で成功する人は「いくらいくらの資金が貯まったら起業する」とか「この資格を取ったら起業する」という発想は基本的にしません。この発想では「だって資金が貯まらないから、資格がないから、起業できません」の言い訳になってしまうからです。「病気が治ったら幸福になる」と思っている間は、病気は治らないのと同じです。
「起業するから資金を貯める」「起業するから(それに必要な)資格を取る」この発想をします。これらは既に「起業すること」を前提としています。
また「あるお金でやる」「今自分の持っている能力/人脈でやる」という発想をする人が起業に成功する人です。
勿論、資金の調達や、スキルを磨き続けることも必要です。起業後もこれらのことが、要らなくなりはしません。
しかし「今自分の手持ちの札で勝負する」発想を持てないと、山あり谷ありの会社経営はできません。
小説家の故宇野千代さんは、着物のデザイナーとしても有名です。宇野さんは小説家としては寡作だったため、小説以外の仕事でお金を得る必要がありました。
彼女は戦後、「スタイル社」という自分の出版社が倒産し、莫大な金額の借金を負いました。信用が失墜していたので、宇野さんにお金を貸す銀行は一行もありませんでした。
ある時、随筆の原稿料として五千円が入り、これで白地の縮緬の反物を一反買うことが出来ました。そしてある染め物工場の奥さんに
「奥さん、これを染めて下さい。染め代は、この一端が売れた瞬間に飛んできてお払いしますから」と頼みこみました。その小紋は見事な仕上がりで、あっという間に売れました。やがて一反が二反になり、五反になり、二十反になりました。
宇野さんはスタイル社のずさんな経営の反省から、反物一反一反ごとの柄と値段を書いた小さな厚紙の札を作り、紐に通してくくり、一目で在庫がわかるようにしました。反物が売れたら紐から札を抜き、仕入れが起きれば札を作って紐に通し、一反も在庫をおろそかにしないようにしました。
これが後に「株式会社 宇野千代」になりました。この仕事を始めた時、宇野さんは六十歳を過ぎていました。
(宇野千代「生きて行く私」より)
起業に限らず、困難を乗り越えること、チャレンジを続けられる人は、この「あるものでやる」発想ができています。上記の「英語は初めてかもしれないけれど、言葉を学んだことはある」「営業は初めてかもしれないけれど、人様のニーズに応えて喜んでもらい、お礼を言われたことはある」の発想ができます。
本当はどんな人も、「○○は初めてだけれど、△△はある」のです。これに意識を向けられるかどうかです。
「あるものでやる」とは、これまでの自分の丸の上に、新たな丸を重ねることでもあるのです。
困難を乗り越えてこそ、年輪は密に、そして堅く丈夫な木に
自然に植わっている木は、年輪は同心円状ではありません。北側の日の当たらないところは年輪が密になっています。
私たちが時には長い時間をかけて、困難を乗り越えようとしている時、外側からはなかなか成果が現れず、まるで成長が止まっているかのように思うかもしれません。しかし、自分と向き合い、投げ出しさえしなければ、必ず年輪は刻まれています。年輪が密な部分は、硬くて丈夫な部分です。
当時は「いつまでこの苦しみが続くのか」と悩んでいたけれど、後から振り返ると、自分の人生において不可欠な時期だった、という経験が、どんな人にもあるでしょう。
それは、年輪を密に重ねている時だった、と考えることもできます。
そうすると、今の、もしくは将来訪れる困難も、「これは自分という木の年輪を、密に重ねている時なのだ」と捉えることもできるでしょう。困難を前もって恐れない人は、この発想をしています。
自尊感情の豊かさとは、「自分は小さくても完全な丸」「木の年輪を重ねるように、成長や学習を楽しむ」姿勢に裏打ちされています。だからこそ、自分も他人も完全な丸で、かけがえのない存在だと心で感じ取ることができます。
自分のみならず、他人、特に子供に対して否定や禁止が多い場合、「完全な丸ではなく、欠けた丸だと捉えていないか」を振り返るきっかけにすることができるでしょう。