「何が何でも・・・!」は非常に短い時間なら効果的な場合も
執着を手放しましょう、執着しなくなると望みが叶います、と聞いたことがあるかもしれません。
執着とは「何が何でも・・・!」という心の状態です。
「何が何でも・・・!」は非常に短い時間なら、威力を発揮する場合もあります。
例えば、マラソンでのラストスパートは「何が何でも・・・!」の気持ちを強く持たないとできません。スポーツだけでなく、例えば津波などの危険から逃げる際などは、「何が何でも生き延びる・・・!」という強い気持ちが必要です。
「何が何でも・・・!」が強すぎると逆効果の理由
しかし長期的に取り組む必要がある場合は、「何が何でも・・・!」は逆効果になりがちです。
例えば、以下のセリフを言っている人が、どんな人か想像してみて下さい。
「何が何でもお金が欲しいんです・・・!」
「何が何でも痩せたいんです・・・!」
「何が何でも恋人が欲しいんです・・・!」
このようなことを言う人を「お金がある人」「スリムな人」「恋人がいる人」とはイメージしないでしょう。
「何が何でも・・・!」が強すぎると、上の例だと、ああ、この人は
「お金に困っている人」
「痩せる必要がある、太っている人」
「恋人がいなくて寂しい人」
なんだな、とイメージします。
そして「お金に困っている」「痩せる必要がある」「恋人がいない」状態が実現してしまいます。
執着は不安の裏返し
でもそうは言っても、お金を得たいのも、体重を落としたいのも、恋人が欲しいのも事実ですし、こうした望みを持てばこそ努力しようとも人は思います。
望みが執着になるのは、その背景に不安があるから。執着は不安の裏返しです。この経験がない人はいないでしょう。お母さんの姿が見えなくなって、火がついたように泣く赤ちゃんは、不安で不安でたまらず、他の誰かが慰めても泣き止みません。お母さんに執着している状態です。
「本当にその望みが叶うのだろうか・・・?」という不安に振り回され、コントロールできない時に執着が生まれます。そして誰にも、その結果はわかりません。何時何分に目的地に着くとわかっている電車に乗っている時に、「もし着かなかったらどうしよう」とは考えません。しかし事故が起きて、しかも復旧の目途がつかないと人は不安になります。そして不安が高じると怒り出します。人情としては尤もですが、怒ったところで良い結果は生みません。ですが私たちは、しばしばこれをやってしまいます。
不安を受け止めるもう一人の自分
不安は人間の感情の中でも、本能に属するものです。ですから不安を消すことはできません。
不安を「感じないふりをする」は誤った楽観主義に陥りかねません。「今日倒産しなかったから、明日も倒産しないだろう」「神風が吹くから大丈夫」「あの人だってさぼってるから、私もさぼったっていいや」・・これらは破滅に導くだけの、誤った楽観主義です。不安を見て見ぬふりをするとは、不安から逃げていること。まっすぐに向き合っていないという意味では、実は執着と本質的には同じです。
不安を「なかったことにする」のではなく、もう一人の自分が「ああ、今自分は不安を感じているのだな」と受け止めることが大変重要です。もう一人の自分が、「不安を感じている自分」を眺めている、これは不安を相対化しています。客観視とは相対化のことでもあります。不安を否定せず、受け止め、かつ不安に埋没しない自制心を養うことが、「もう一人の自分」を育てることです。
不安を消すのではなく、耐性を高める不安を感じやすい人ほど、「不安を感じたくない、不安を消したい」と望みがちです。もっともな心情ではありますが、現実には不可能です。何故なら、不安は恐れから生じ、恐れは私たち人間が生き延びるた[…]
不安が強い人ほど、実は小さな行動に移していない
また「今日、今、出来ることは何だろう?」と自分に質問をすると、「(何かを)出来る自分がいる」という前提で自分を見ています。不安に感じても、執着にならず、振り回されない人は、小さな、すぐできることを探して行動に移す習慣が身についています。
これを裏から言えば、「どうしていいかわかりません」で終わりにしないということです。これは思考停止のための、もっともらしい言い訳です。自分だけではわからなければ、誰かに相談し、やれることから始める、この言われてみれば当たり前の、しかし面倒くさいことから逃げることも、しばしば起きています。自尊感情が高くなればなるほど「どうしていいかわかりません」を言うこと自体が、嫌になってきます。
「もし~だったらどうしよう?」は「出来ない自分」、「出来ることは何だろう?」は「出来る自分」という枠組みで、自分を見ています。
お金を得るため、体重を落とすため、恋人を得るため、「今日出来ること」をほんの少しでも積み重ねる、そうすると「ゴールに向かって前進した自分」になります。
潜在意識には「有」か「無」しか入りません。たった5分でも10分でも、潜在意識には「今日前進した」「前進しなかった」としか入りません。小さな一歩を決して馬鹿にはできないのです。不安が強い人ほど、或いは不安にどっぷりさいなまれている時ほど、頭の中でぐるぐる考えてばかりいて、小さな行動に移すことを実はやっていません。
その行動も、状況判断をし、優先するべきことから着手する。それもわからない場合は、とりあえず思いついたことをやってみて、結果から判断し、必要なら修正する。こうした現実に根差したことをやらないと、「やってます感だけで、全く無意味」の罠に陥ってしまいます。
若干余談めきますが、潜在意識には「有」か「無」しか入らないとは、たとえて言うならお金持ちは一円でも大事にする、と言ったことです。一円でも一億円でも、お金はお金です。一円を大事にできない人は、一億円も大事にできないから、結果的に一億円は自分のところにやってきません。お金にもし人格があるとするなら、お金だって自分を大事にしてくれる人のところへ行きたいのです。よく、お金持ちはケチと言われますが、「一円でも大事にする」姿勢がケチだと映るだけです。
実現不可能なことに執着していないか
あの手この手で色々努力し、行動に移しているのに実現しない、「何でなの⁉おかしい!」と余計執着が大きくなる場合もあります。
例えば結婚相談所では、「夢みたいなことばかり言っている人は、いつまでたっても結婚できない。現実をちゃんと見られる人が結婚できる」のだそうです。外側にいる人間は「そりゃそうでしょ」と思うことでも、いざ当事者になるとわからなくなる、人間はそうしたものでしょう。
また、誰かに何かを変えてほしい、変わってほしい、そう願ったことのない人もまたいないでしょう。自分から、或いは人を介して注意して、態度や行動を改めてもらう、その試みをまずしてみることも時には必要でしょう。陰口だけ叩いても何も変わりません。
ただもっと根深い恨み、特に親に「反省して変わってほしい。これまでのことを謝ってほしい」と願う気持ちは、中々捨てきれず、執着になりやすいです。その執着だけに囚われると、自分が余計に苦しくなります。悔しさや怒りを否定せず、そしてその願いは叶いそうもないことを嘆ききった後、実現可能なセカンドベストの望み・目標を考えると執着がなくなっていきます。例えば「変わってもらうのは無理、実現しない。その代わり、今の生活に干渉されないように、自分から距離を取る」などです。
もう少し日常に即した例を挙げると、「わがままなお客さんに来店してほしくない。でも客商売でゼロにするのは非現実的。そういうお客さんが来てしまった時に、他のお客さんに迷惑をかけないよう、穏便に、できるだけ早くお引き取り頂く術を身に着ける」などです。
こうした実現可能なセカンドベストを考えないと、「何が何でも親に変わってほしい」「何が何でもわがままなお客さんに来店してほしくない」の執着になります。
心にとっては「結果はどちらでもいい」
実現できそうなことは、不安に埋没する暇があったら小さな行動に移す、実現不可能なことは、実現可能なセカンドベストを考える、二つの面から執着をなくしていく方法を書いてきました。いずれも望む結果を実現させるために必要なことです。
しかし本当のところは、心にとっては結果はどちらでもいいのです。
少し前のNHK-BSのドキュメンタリー番組で、漆の蒔絵のための筆を作る職人さんの番組がありました。この筆は特殊な筆で、琵琶湖のほとりに棲む或る特殊なネズミの毛でないと、ダメなのだそうです。
環境の変化でそのネズミが捕れなくなり、日本の伝統工芸である蒔絵が衰退の危機にある中、中国の奥地にそのネズミがいるらしいと聞いたその職人さんが、全くの自費で探しに行きました。
日本人は誰ひとり訪ねない奥地です。
しかし残念ながら、望んだネズミではありませんでした。
この番組は、視聴者から「もう一度見たい」という要望が大きかったものを再放送したものでした。それだけ、この番組を見た多くの人が、その職人さんの使命感に感動すればこそでしょう。
ネズミが見つからなかった、それは望んだ結果ではありませんでした。しかしその職人さんが、使命感に突き動かされて、命を懸けたその生き方は、多くの人の心に深く刻まれたのです。