メタ認知能力とは
「メタ認知」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。簡単に言うと「自分を客観視する」ことです。メタとは「~を超えて」という意味です。
自分を他人のように眺める力があるかどうか、そしてそれにジャッジをしない(利害の絡まない赤の他人は、感想は言ってもジャッジしません。自分に迷惑をかけられたわけでもないのに、非難したくなる、いわゆるバッシングをしたくなる時は、自他の境界線をもう一度しっかり引き直すサインです)ことが、自尊感情にも影響します。
- 自分には何が出来て、何が出来ないか
- 自分は何を知っていて、何を知らないか
- 自分は何は理解できて、何は理解できないか
- 自分は何を望んでいて、何を望んでいないか
もし、これらのことを即答できれば、判断に迷うことはかなり減るでしょう。即ち、メタ認知能力とは、自分の今の限界や(将来における限界とは異なります)、自分の本心が望むことを知っている、ということです。
メタ認知能力が下がっていると、自分の本心が自分でわからなくなり、「本当は望んでいないこと」を言ったりやったりしてしまいます(「お母さんなんかどっかいっちゃえ!」「こうするべき。こうできない自分はダメ」)。本心がわかった上で、「今は違う選択をする」のと、本心かどうかわからないままそれをするのは全く異なります。後者はいわゆる「自分を見失った状態」です。
「自分を見失った状態」では、建設的な判断や決断を下せません。決断力のある人は、大抵即答できます。即答しない場合も、その方が自分と全体のためになるという自信があってのことです。上記のメタ認知能力に支えられている結果です。そして一旦下した決断を、根拠もなく覆すことはしません。
そしてこういう人をはたから見ると「自信のある人」に見えるでしょう。
多くの人が、能力や地位や評価を得れば「自信がつく」と思いがちですが、必ずしもそうではありません。
本当に自信のある人は、自分よりも能力の高い人を部下につけて使いこなすことすらできます。そして何より「自分が何もかもできるわけではない」ことを重々わきまえています。
「真に自信がある状態」とは能力や地位や評価を得ているから、ではなくこのメタ認知能力によるものと言っていいでしょう。
しかし、生まれつきこの「メタ認知」ができる人は誰もいません。生まれたての赤ちゃんにはそんな能力はありません。
この「メタ認知」とは大脳の前頭連合野といって、誕生後およそ20~25年かかって完成する部分が担っています。
つまりこれは後天的なものであり、訓練次第で誰でも身につけることができます。
自分自身や起きた出来事を「通りすがりの人」の目で見る
当Pradoのセラピー・セッションでは、イメージを使ったワークで、自分でも相手でもない第三者のポジションに立ってもらう、ということを行うことがあります。
その際クライアント様に「この出来事とは全く関係のない、通りすがりの人になったつもりで、この出来事を眺めてみましょう」などと申し上げます。
誰でも「他人のことはよくわかる」ものです。
これまでのいきさつや利害がからまない他人の方が、過大評価も過小評価もせず、当事者よりも客観的になりやすいでしょう。
常日頃から、特に嫌な出来事、困った出来事が起きた時は、自分が「通りすがりの人」になったつもりでこれらの出来事を横から眺めてみると、冷静になれ、気づきを得ることが出来ます。
自分を客観視する練習に① 最近あった、もしくは近々起こるだろう少しネガティブなことを一つ選びます。深いトラウマではなく、「一週間か、長くても一か月もしたら忘れてしまうだろうけれど、今はもやもやする」と言った、どんな人にも起こりが[…]
またどんな人も、脈拍が1分間に95を超えると問題解決できない、と言われています。成人の安静時の脈拍がおよそ70です。軽めのウォーキングで110~120です。
気持ちが焦った時に「まあまあ、落ち着いて、深呼吸、深呼吸」などと言ったり言われたりした経験が誰しもあるでしょう。人は直観的に「脈拍が上がった状態では問題解決が出来ない」と知っています。
脈拍が上がった時にすぐ戻せることも役に立ちますが、最初から「冷静さを保てる」となお良いでしょう。
冷静な人、とは必ずしも持って生まれた性格によるとは限りません。前述した前頭連合野が十二分に機能していると、扁桃体という「脳のパニックボタン」を抑制してくれます。ですから、訓練次第で「冷静な人」にはなれます。冷静さは持って生まれた性格というよりも、メタ認知能力が発達し、自制心を育んだ結果です。
自尊感情高く生きるには、「自分にとって大事なことに沿って、どうしたいか、どうするのか」のエンジン・アクセルと、上記の自制心によるブレーキの両方のバランスが大切です。
メタ認知能力と自尊感情
メタ認知能力と自尊感情は関係性があります。
自尊感情とは「どんな自分もあるがままに見て、なかったことにしない」態度からくるものです。
例えば、床に埃が舞っていても、掃除をする余裕がなければ
「見ぬもの清し!見なかったらないのと同じ!」と自分に言い聞かせて今日は寝る、こうしてお茶を濁していないと私たちは大げさに言えば生きていけません。
「どんな自分もあるがままに見る」とは、床の埃はなかったことにしても、お茶を濁している自分はなかったことにしない、「こんな自分は情けない」といじめたりもしない、ということです。
通りすがりの人のように「ただ、そうなんだ」と受け止めます。これがメタ認知です。
弊社のセラピー・セッションでは、上記のワーク以外に、「あの出来事を今振り返ってみて、どのような気づきがあったでしょう?」など、メタ認知能力を養う質問をしばしば行います。ですので、クライアント様は自然にメタ認知能力が高まり、感情や反応に振り回されにくくなっていかれます。結果「楽になる」とは、こうしたことなのです。
メタ認知能力に左右されるコミュニケーション能力
またメタ認知能力が高まると、コミュニケーションにおいても、相手の話のコンテンツ(内容)の是非ではなく、相手がコンテンツをどう受け止めているかに意識を向けることができます。
「あの人、嫌な人なのよ!」「そう、嫌な人なのね!」ではコンテンツに巻き込まれてしまっています。そして「あの人がいかに嫌な人か」に焦点が当たってしまいます。うっぷん晴らしにはなるかもしれませんが、建設的な解決にはなりません。
「あの人、嫌な人なのよ!」「余程嫌な思いをしたのね」これだと相手の感情そのものを受け止めつつ、コンテンツには巻き込まれていない状態です。
状況によっては、相手もいくらか気持ちが落ち着き、脈拍が95以下になるかもしれません。
「あの人が嫌な人かどうか」は評価であり、客観的な事実ではありません。しかし話し手が「あの人とのかかわりの中で嫌な思いをしたこと」は事実です。
共感とは、同情や同意とは異なります。「相手がそう思った」事実によりそっていくことです。そして「相手がどう思ったか」に、良い悪いはない、この態度がなければ「どう思ったか」についジャッジを下したくなってしまいます。これが「話のコンテンツに巻き込まれる」ことの要因です。「相手がどう思ったか」をそのまま受け止めつつ、「自分はこう思う」を良い悪いではなく率直に伝えられるのが、優れたコミュニケーターです。
自分と自分のコミュニケーションにおいても、「コンテンツに巻き込まれているか」「『そう思った』ことをそのまま受け止めているか」で、同じように真剣に考えているようでも、その結果は大きく変わります。不毛な悩みから抜けられないのは、自分から「コンテンツに巻き込まれている」、つまりメタ認知能力が下がっているからなのです。
心の状態とコミュニケーションは密接な関係が人生の質はコミュニケーションの質とも言われます。コミュニケーションは、外国語を勉強するかのように、何かのお手本に沿ってさえいれば上達するわけではありません。自分と相手の心の状態に大きく左右され、ま[…]
またコミュニケーション能力は、情緒的な優しさとも異なります。
情緒的な優しさは心を癒す側面もありますが、過干渉や憐憫に変わると相手の自尊心を傷つけます。
コミュニケーション能力は情緒よりも客観性や想像力であり、また「思いやり」は情緒ではなく想像力です。「相手の立場に立って考える」ことです。そして想像力も脳の前頭連合野がつかさどります。
「気持ちが優しい」は持って生まれた性格かもしれません。しかし想像力は後天的な訓練によるものです。この訓練を怠ると「気持ちは優しくても思いやってはいない人」にすぐなってしまいます。
だからこそ、持って生まれた性格とは関係なく誰でも、「思いやりのある人」にはなれるのです。
メタ認知能力が高まることにより、自分の心が安定するだけでなく、コミュニケーション能力が高まります。クライアント様が「特に優しく振る舞おうとしているわけではないのに、家族に『優しくなった』と言われる」のは、このためなのです。