曽野綾子は比較的若いころから、そして実際に高齢になるまで(この本が出版されたのは2006年ですから、著者が74歳の時です)歳を取ることについて考え続けてきたようです。まえがきに「戒老録」を出版したのが40歳の時だった、とあります。
「晩年の意味は、年を追う毎に濃厚になり、発見も多くなる、とすれば、そこには楽しみな部分も増えるのだろう」(まえがき)
歳を取ることは豊穣であるとの考え方に、私も共感しています。ですから、まだ私自身は晩年に程遠い年齢ながら、この本を繰り返し読んでいるのだと思います。
中でも私の好きな章は「笑う仏たち」で、これはある旅の際中のちょっとした一風景を切り取っています。
とある田舎駅のホームのベンチに、初老の女性二人連れが座っていて、曽野綾子自身も二人の隣に座っていたところから話が始まります。
そこへ子どもを抱いた若い母親が無言でベンチの前にこちら側を向いて立ち止まりました。それはまるで無言で席を譲ってくれと要求しているかのようでした。初老の二人連れが席を若い母親に譲ったのですが、不思議なことに、その若い母親はまたしても無言で30秒ほどその場に立ち、そしてその場を去って行ったのです。
二人連れが戻ってきて、今の出来事について会話するのを曽野綾子が聞きとめていました。
「何にせよ譲られたんなら、要らなくても、一度は私たちを納得させるためだけにでも座ったらいいじゃないの。座りもせず、しかもこの場を動かずにいて席を空かせておくなんて、最高におかしなやり口だわ」
「何か事情があったのよ。会いたくない人がすぐその辺にいて、その人から見えない角度と言ったらここしかなかったのかもしれないし・・・」
こうした会話を受けて、曽野綾子は次のように結んでいます。
髪を染めた大柄な『おばさん』は、威勢がよく、ずばずば言うはしたなさが、ちょっと私に似ていた。彼女も物事の要点は衝いていた。
しかし白髪で小柄な女性は、それらの光景の背後にある人生の陰影を、優しく補おうとして充分な想像力を働かせていた。
人の生涯には、その時々にいろいろな事情があって、それは決して他人にはわからないものだから、ということを彼女は信じているのだろう。
そしてそのような深く複雑な視点というものは、若い人にはまず備わっていないものらしかった。
私達は正義や正論を振りかざしていとも簡単に他人を裁きがちです。
勿論、行為の代償や責任は取らなくてはなりませんが、何故、その人がそのような行動を取るのかは、他人が安易に推測することはできません。
何故あんなことをするのだろう」という疑問は自然なものですが、「きっと○○だからだ」と決めつけてはいけないですね。「○○だからなのだろうと思うけれど、本当のところはわからない」という慎みを常に持っていたいものです。
そして自戒を込めて書きますが、正義や正論を主張する時にこそ、愛が込められていなくては、と思います。
もう一つ、「碑文は祈る」という章をご紹介します。
この章にある「病者の祈り」を少々長いですが、引用させて頂きます。
大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに慎み深く従順であるようにと
弱さを授かったより偉大なことができるように
健康を求めたのにより良きことができるようにと
病弱を与えられた幸せになろうとして
富を求めたのに賢明であるようにと
貧困を授かった世の人びとの賞賛を得ようとして
権力を求めたのに神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのにあらゆることを喜べるようにと
いのちを授かった求めたものは
ひとつとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた神のみこころに添わぬ者であるにも
かかわらず心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた私はあらゆる人の中で
最も豊かに祝福されたのだ
これはニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に書かれた、無名の一患者が作った詩です。
力や、健康や、富を求めること自体はごく自然なことでしょう。しかし私たち人間の望みを超えたところに、自分でも思ってみなかった「その人ならでは」のものがあるようです。
曽野綾子はこの章を、次のような格調高い文章で締めくくっています。
一患者は病まなければ、ここまでみごとな人間には高められなかった。しかしだからと言って、人間が病気になるのを放置する人も希望する人もいない。
人間にとって願わしいのは、健康である。ただ神はそうした人間の選択に二重の『保険』をかけられた。人間は健康であるほうがいい。
しかし仮に健康を失ってもなお、人間として燦然と輝く道は残されているということだ。これは何という運命の、そしてその背後にいる神の優しさなのだろう。