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「中年以後」曽野綾子

世間一般では若さがもてはやされることに、自分自身が若い頃から違和感を抱いていました。というのも、恐らく私は若い頃、30代の初め頃まで全くと言っていいほど自分に自信が持てず、毎日のように「私はこれでいいのかしら」「(仕事の場面では)自分のヘマでまたクレームが起こりはしないだろうか」と言った、答えの出ない不安にいつも苛まれていたからだと思います。

勿論、若さの美しさというものはあります。しかし、それは天から与えられたもので、自分が努力して手に入れたものではありません。若さの美しさは年月とともに失われます。心がけ次第で肉体的な若さはある程度まで、精神の若々しさは老年になってもなお保ち続けられるでしょう。

しかし、肉体的な意味においても精神的な意味においても、若さと引き換えに得るものの方に、老成とか成熟というものの方に、私は関心がありました。若さの美しさは天から与えられます。しかし若さと引き換えに得る成熟とは、こころの奥の目を見開き続けないと得られないものなのです。

その成熟の中身について、ぼんやりととらえていたことを、今回取り上げる曽野綾子の「中年以後」と次回に取り上げる予定の「晩年の美学を求めて」では、作家の炯眼が鋭く、そして暖かく描き出しています。

中年以後が人生だ。(略)心の奥底まで踏み込んで人間的な理解をしようというなら、こちらにも人間を観る眼ができていないと困る。どの観点から人を観るかなどという巧者なテクニックは、若い時にはとうてい不可能な選択の技術だ。
その用意が整うのが中年というものだ。

醜いこと、惨めなこと、にも手応えのある人生を見出せるのが中年だ。女も男も、その人を評価するとすれば、外見ではなく、どこかで輝いている魂、或いは存在感そのものだということを、無理なく認められるのが中年だ。魂というものは、例外を除いて、中年になって初めて成熟する面がある。

歳を取ることは楽しみでもあり、また一種の畏れでもあります。一日一日、毎瞬毎瞬を徒や疎かにはできません。もちろんそれは、のべつ幕なしに何かをし続けなくてはならない、ということではありません。この今、という瞬間の時間の豊穣と、今この瞬間のありのままの私を愛おしむ、そして魂の声を聞く、ということだと思います。

総じて年を取るに従って、人間は重層的に、表から裏から斜めから、ものごとを見られるようになる。それが年とともに開発された才能である。この才能はかなり遅れて開花し、かなり年取ってもまだ延びる芽であろう。

中年以後、どれだけ多角的に、ものごとや人間を見られるようになっていくのか。人間のこころの複雑さを知れば知るほど、ものごとを一刀両断にはできなくなります。正しいことの反対もまた正しいということがありますね。どれだけ様々な角度からの視点を持てるのかが、大人の寛容であるように思います。

成熟の中身はかくも複雑。このことを曽野綾子は「燻し銀の豪華さ」と例えています。